母の二十年祭に思う(古神道の慰霊の一例)
東京で暮らしていたが、関西の母から電話があった
色々と不安なのでちょっと西宮に帰ってきて欲しいとのこと
東京での暮らしも長くなってきたが
母が五十代になって急に老けたように感じたのもあり
まだ幼い弟のこともあり
わかった
と承諾して、西宮の実家に一時戻った
それから少しして
母が腰が痛いのでかかりつけの阪大病院に行ってくる
と行って朝から病院に行った
その日、夕方になって家に帰ると
電気もついてないリビングで父と母が黙って座っていた
不審な感じがしていたが電気をつけて
「なんかあった?」
と両親に聞いたところ
「母が膵臓癌でステージ4で余命一月あるかもわからない」
とのことだった
母は涙し父は無言で項垂れていた
両親のそんな姿を見るのは初めてだった
それから当分は本当に余命宣告を受けたのか
と思うくらい母は元気だった
抗がん剤治療をするかどうかと迷っていたが
父は母のために最高の医療が受けられるように働きかけ
また西国三十三ヶ所や四国八十八ヶ所の巡礼を始めた
私は今まで母とほとんど触れ合ってこなかったので
向き合って話すことや一緒に神社やお寺を巡って
母が安心を神仏の世界に求めるように祈った
母は次第に神仏に安心を求め
一緒に叡山の酒井大阿闍梨に会いに行って
話を聞いてもらって励まして頂きお加持をして頂き
生きる気力を取り戻した
それから母は毎日観音経の
「念彼観音力」
という一節を日に何度もノートに写経しだした
おかげさまで半年ほどは元気だった
しかし次第に腹水が溜まりだし何度抜いても溜まり
ついに阪大病院に入院ということになった
暗黙の了解でこれが最後の別れになるかもと
本人も家族も皆思っていたので
毎日家族が母に付き添った
母と落ち着いて話をしたのもその頃だったが
私が古神道の修行者と週末だけ神職をしているのを
今まで母は何も言わなかったが
私が神道では帰幽しても産土の神様がお迎えに来てくださること
その後子供達を守る守護神になること
などを話すと
「神様になれるのか、それならお葬式は神葬祭にして」
と喜んでいた
その時初めて母が私に
『そんなに神様のことが好きなら家のことはいいから神主として生きなさい』
と私に言った
結果的にこれが母の私への遺言となった
その後すぐ痛みが激しくなり、本人の希望と医者の勧めもあり
モルヒネの投与をするようになった
この投与をすると心臓が弱り数日後に息を引き取るということだったが
もうこれ以上痛い目を母に見せたくなくて了承した
数日後心拍数が低下して危篤状態になった
私は母がいつ帰幽してもいいようにと
常に胸に神仙道の引導の秘文を忍ばせていたので
ついにこの日が来たかと思っていた
危篤状態で眠る母と二人になった時に
「もう頑張らんでもええんやで、楽になって」
と話しかけると、まるでそれにうなづくように
その瞬間から急激に心拍数が下がり
心肺停止して息を引き取った
医者が来て死亡を確認し、家族が母のなきがらを取り囲んで泣く中
私は引導の秘文を取り出して、悲しみを堪えて奏上した
奏上の中ほどで産土神社の方向から
光り輝く神様や御眷属方が来臨され
母の魂の一部を引き取って神社の方に帰られるヴィジョンをありありと観た
秘伝は本当なんだと思った
そして安心して初めて涙を流した
その後母の葬儀を神葬祭でという遺言だと父に話したが
熱心な仏教信者である父は
仏教じゃないと成仏せん!
と怒って、父の意向のもと古川家の菩提寺の本門法華宗の住職がきて
法華の方式で葬儀は執り行われ
母は「芙蓉院」という院号になった
それはそれで仕方ないと思い
自分は母の意向を大切にして
父には内緒で五十日の日に産土神社にお願いして
神道式の霊璽を謹製して頂き、神様として母を祀ることにした
また葬儀の時に母の棺桶に本物の五岳真形図全巻をこっそり入れた
それで母は神仙界に行くことが出来たのが後で分かった
また母の亡くなった日から
毎日「幽魂安鎮秘詞」を霊前に奏上し
母の冥福を祈った
祈ると母の姿がありありと観えた
毎日祈っていると二十二日目に夢を見た
母が巫女のような装束で富士山を背景にして出てきて
「おかげさまであっちの神界で働かせてもらうことになったよ」
と笑顔で私にお礼を言って飛んで行った
あっちの神界とは富士山の神界かと思った
院号も「芙蓉院」だから芙蓉=富士山で
その時からもう富士神界に行くのが決まっていたのかと思った
それから五十日までは念の為に慰霊を続けたが
すでに母の御霊は神となり富士神界での修行に行っており
それからは母が見えることはなかった
五十日祭を自分で行った時だけ
一瞬笑顔が見えた
思わず
とほかみえみため
唱えた