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十代に授かった閻魔王の託宣
高校生の頃に当時の彼女と一緒に中山寺をお参りしたことがある
その時に閻魔堂の前でお寺で閻魔を祀っているのかと思って立っていたら、知的障害のある女の子が私の元に来て何かを言ってきたが、残念ながら言葉になっておらず何を言いたいかよくわからなかった
結構な叫び声のような感じなので、その女の子の親御さんが「ごめんなさいね」と謝ってこられたが、私は障害のある人に何故か好かれることが多いので「大丈夫です」とその女の子が私に何かを話しているのを見つめていた
すると、うーああーと言っている女の子が急に低い男の声になって
『そうじゃ、神も仏も同じもの。区別する必要もないのじゃ』と一言言った
え?と自分の聞き間違えかと思ったが、一緒にいた彼女も、その女の子の親御さんも皆聞いたらしく、呆然としていた
女の子は一言言った後は大人しくなって、何も言わずぼーっとしてしまった
その女の子の親御さんは「この子があんなに話したのは聞いたことがない」と、とても驚いておられた
当時の私は修験で大峯に行ったり、毎日祝詞と読経と真言念誦くらいは毎日していたが、こちらが望まずに神からの託宣を受けるとは思ってもみなかったが、何故か安心したような気持ちになった
今となって思えば、閻魔王であり泰山府君であり、地蔵菩薩であり、素戔嗚大神でありと色々と自分に関わる神仏かその眷属の託宣なのだろうが、こういうことが時々起こるので特に不思議とは思わなかったが、今思えばとても重要な託宣を頂いたと思う
当時の彼女は、最初障害のある子供が近づいてきて少し怖いと思ったが、私が平気な顔してその子に耳を傾けているのを見て、意外と優しい一面があるのだと見直したみたいなことを言っていたが、神戸のお嬢さんだから世間知らずなだけだと当時も思った
昔から、神社やお寺や旧家には、知的障害がある子供が生まれたり、存在したりするが、そういう子供を神様の子供として大事にすれば神社や寺院や家が栄えるとも伝わっている
それは自我が薄く、神仏の依代になりやすいからだろう。逆にそういう子供を大事にしない神社や寺院や家は没落すると言われている
武庫の地に育った私には、甲山や広田神社や西宮神社や中山寺や清荒神を懐かしく感じるが、最近三宝荒神について深く学ぶ機会があり、清荒神や中山寺を思い出した時にこの託宣を思いだした
おんえんまやえんまやそわか
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