#短編小説集『黒き手のジュデッカ その2』
雨は大地を罵(ののし)るように激しく打ちつけた。滝のように流れ落ちる雨は、雨音以外の気配を消し去っていく。そんな只中を、何かにせきたてらるように馬車が一台、馬を鞭打たせながら御者が走らせていた。
疲れた馬のいななく声と、口から漏れる白い吐息が宙に舞う。
「大公さま、もうしばらくお待ちください。この峠を越えれば、ご領土の森が見えます」
馬車の客室では、黒い外套(がいとう)を着こんだ執事が、白を基調としたアラベスクの金飾りがついた宮廷服の主人に、大きな目でギョロリと顔色を伺いながら言った。
「御者に急ぐよう伝えろ。日が暮れる前に帰って、娘の誕生日を祝ってやりたい」
かしこまりました、と返事をした執事は、大声で御者に向かって急ぐようまくし立てた。
鞭の勢いは増し、馬のいななきが悲鳴に変わりながら、馬車はさらに先へと進んでいく。やがて、霧に包まれたうす暗い森の中へと入っていった。
しばらくすると急に、どうどう、と御者が声を張りあげて馬車が急停止した。勢いあまって、客室の2人はのけぞり、危うく床に叩きつけられる所を間一髪、踏みとどまった。
「なにごとだ!? 確かめに行ってこい!」
突然のトラブルに怒った主人は、叱りつけるように執事に命じた。
ただいま、と慌てながら、執事は扉を開けて雨の中に飛び込んでいった。そこで、恐ろしい沈黙が訪れた。主人がいくら待っても、執事は帰ってこない。
「おおい! どうしたんだ!! おおい!!」
一人残された主人に、馬車の壁越しに外からの冷気が伝わってくる。彼は、とうとう待ちきれずに、腰に帯びた剣に手を置きながら雨の降り注ぐ大地を踏みしめた。
外に出た主人にも容赦なく雨が打ちつける。堀の深い顔は、彫像のように頑(かたく)なだ。恐れを怒りで振り払いながら、ぬかるみを一歩一歩、馬車の前へと進んでいく。
「イゴール! どうしたんだ!! 返事をしろ!! ……これは!?」
目に映る異様な光景の前に、主人の息が止まった。
雨に混じって、地面を流れる赤黒い血。その流れをたどっていくと二頭の馬とともに、御者の身体が地面に転がっていた。みな凝固したピンのように霧に包まれた雨の大地に刺されている。
だが、主人が驚いたのはそれだけではない。今まさに黒い外套を着た案山子が一体、百舌鳥(もず)の生贄のように地面から伸びる黒い槍の串刺しとなって雨に晒されていた。
それはもちろん、案山子などではない。先刻の執事が、待ち伏せていた刺客から串刺しにされた姿だった。
驚きを怒りで振り払いながら、主人は腰に帯びた剣を一息に引き抜いた。
「貴様!! 何者だ!!」
沈黙。雨の中にたたずむ槍を持った黒い影は微動だにしない。
「名乗らぬというなら、斬るまで!!」
主人の剣は一直線に曲者の喉元あたりをつらぬこうとした。そこで、妙な音がした。剣が折れたのである。
「……ひいっ!?」
折れた切先が泥に落ちて、すぐに見えなくなった。主人の唖然とした表情は、剣だけでなく心も折れてしまったことを物語っていた。
影は死体に突き刺していた槍を引き抜くと、ローブの中から白い顔を浮かび上がらせた。
「お前が大公か?」
死神のように生気がなく、白い肌に白い目の男が、掠(かす)れた声で主人に問いかけた。
一瞬、間を置いて先に男が声を放った。
「答えなくていい。その格好からすれば一目瞭然だ」
痩せた頬に、微(かす)かな笑みが浮かんだ。それは獲物を見つけた肉食獣が見せる表情に近い。
「どうして、わたしを?」
「それは……俺から言うことはできない。一つ言えるのは、裏切ったのは俺じゃない、お前たちだからだ」
「裏切り?」
「胸に手を当てて、自分自身に問いかけてみろ」
「…………」
「まあいい、何も知らずに地獄へ落ちるがいい」
そうか、とここで大公は、合点がいったと落ち着きを取り戻した。そして、改めて目の前にいる奇怪(きっかい)な黒装束の白い男に語りかける。
「その言いよう、貴様にはまるで罪悪感がないようだな」
「なんだと?」
「わたしを殺しても、わたしに連なる志(こころざし)を持った者が現れるだけだ。我らの意志を封じることなど決して叶わぬ!!」
「そうか……なら」
「お前は用済みだな」
今まで槍だと思えた黒装束から伸びた武器が、男の手に戻った。指先がなめらかに黒光りを放つと、次に現れたのは刀だ。
どこまでも黒く、凍てついた刃が煌めいたとき。大公の瞳に一瞬、愛娘の笑顔がよぎった。それが彼が見た最期の……。