川柳で若い世代にエールを送りたい 24/6/3
1.川柳の一言コメント
「水色になって人生やり直す」
日本語には「水に流す」という言葉があります。手元にあるちょっと古い広辞苑で「水に流す」の意味を調べてみると、「過去のことをとやかく言わず、すべてなかったこととする。」とあります。
この言葉の背後には、「水に流してあげた人」と「水に流してもらった人」がいます。両人の間に何か好ましくないことが過去にあったのですが、そのことを許してあげた寛大な人と、許してもらった幸せな人がいる訳です。
人間は神様ではないので様々な過ちを犯します。また、過ちと言うより失敗と言った方が良い場合や、自分に落ち度の無い事故・事件・災害等の不運に見舞われることもあります。
もしも神様が、過去の過ち、失敗、様々な不運を全て水に流して無かったことにしてくれたら、人生は素晴らしいものになるでしょう。でも、そんな神様いません。仮に神様が信仰上で良くなかったことを帳消しにしてくれたとしても、人間の世界で過去は消せません。
どんな時でも味方になってくれる有り難い家族のような人も全能ではないので、「できる事はしてあげるけど、できない事はできないよ」と言うでしょう。不都合な事が起きた後、水に流してもらえるケースはむしろ少ないです。
この川柳の「水色になって」は、「水に流す」という言葉をイメージしています。人生の様々な場面で起きる過ち、失敗、不運等で、水に流したいけれど流せないときどうするか。
自分が水になって、原点に戻った気持ちで再出発するしかないなと考えて川柳にしました。
2.私の経験で思う事
私は今までに2回、いきなり会社をクビになりました。一回目は、約27年勤めた都市銀行の仕事に行き詰まり、銀行員としての生き方にも行き詰まり、仕事を続けられなくなり自己都合退職した後のことでした。
心身ともに疲れ果てていました。退職後、リハビリも兼ねて一人で都会の片隅でひっそりと二年余り過ごしました。しかし、収入が無く貯金が減っていくのが不安で、話し相手の居ない一人の生活も精神的に不安定さを増幅させ、助けを求めて和歌山県の実家に戻りました。
家族の援助のもと郷里で再出発すべく、地元の梅干製造会社に就職したのですが、この会社は従業員を使い捨てにすると噂の会社だったのです。
案の定、私は約1年半で解雇されました。その頃の田舎ではよくある話でした。まあ経営者にしてみれば、「君に能力が無かったからだ」と言うのでしょうが。
私は突然クビになってひどく落ち込みました。「田舎に戻ってゼロからやり直そう」と決心して郷里で就職したのに、出鼻をくじかれて、もう一度奈落の底に落とされた感じでした。
しかし、やっぱり生きていかないといけないから、気を取り直してハローワークに通い、地元の銀行のパート職員になりました。都市銀行の仕事に行き詰まって辞めたけれど、自分のキャリアを生かすためには銀行業務がいいと考えたのでした。
でも、銀行のパートは収入が少なすぎて食べていくのさえ大変で、その後の自分の未来を描けませんでした。「どうしてこんな男になってしまったんだろう」と、自分を情けなく思いましたが、そのときはただもがいているだけでした。
郷里は人情が温かくて良い面がありましたが、辛い一面もありました。
一度都会に出た後、うまくいかずに戻って来た人間は、自分では「郷里でゼロからやり直そう」と思っていても簡単ではなかったのです。
私が就職のため高校卒業後に郷里を離れたのは18歳でした。そして舞い戻ったのは47歳です。その間29年の時間が流れていますから、郷里の人も産業も変わっています。分かり易く言えば、私が47歳でゼロから再出発しようとしたとき、同級生は29年先を走っていたのです。
結局、郷里での生活も行き詰まり、もう一度、新しい仕事と新しい生活を求めて上京しました。ちょうど50歳の再再出発でした。このとき、忘れられないありがたい思い出があります。
再度上京すると決めたとき高校時代の恩師に挨拶に行きました。恩師は「50になって今から一人で、新しい仕事しに東京へ行くんかい。大変やな」と言って、私に餞別をくれたのでした。
この先生には世話になりっ放しで申し訳なく感じました。高校卒業して32年も経つのに、出来の悪い教え子を持つと先生も大変です。でも、ほんとうにありがたくて暖かい気持ちが心に染みました。御恩は死ぬまで忘れません。
再度上京してから最初の仕事は建設業の特殊な仕事でした。初めての仕事で一から社内教育を受けました。社長以下15名ほどの会社で、結構きつい仕事でしたが、それ相応の収入が得られました。
しかし、また波が来ました。リーマンショックで仕事が激減し、会社の人員整理でクビになりました。1年10ヵ月の勤務でした。このときは、郷里で突然のクビ切りを一回経験済みでしたので、気持ちの切り替えは早くできました。辛い経験も糧になったのでした。
この頃、私のように職にあぶれた人が大勢いて、ハローワークはいつでも人でごった返していました。年齢的に条件の悪かった私は、業界、職種を問わず、自分が応募できる会社に片っ端から履歴書を送りました。
そして、45社目で介護の会社に拾ってもらったのでした。デイサービスの職員をしながら資格を取り、ケアマネージャーになることができました。食べていく為に勤めた介護の仕事でしたが、今思い返せば、この会社は社員を大切にするすばらしい会社でした。
私は、20代後半から30年余り仕事で苦しんできました。収入が無いと生きていけませんので、自分に合わない仕事だと感じながらも失業するのが怖くて、自分の生活を仕事に合わせてきました。
今まで「この仕事が天職だ」と思ったことは一度もありません。但し、それでも「仕事は仕事」と割り切り、その時々で自分のベストを尽くしてきました。「自分は今、幸せと言えるのか」と自問したとき、答えはいつも「不幸とは言えない」でした。
生きていく事を優先していましたので、食べるのに困った時期は殆どありません。しかし、「人はパンのみに生きるにあらず」です。生きてはいるけど、この状態が自分らしい生き方かというと、答えはいつもNOなのです。
自分の望む職に就いて、生き生きとして活躍できている人は幸せだろうなと思います。私もそれを願ってきましたが、今までの私に、自分の望みを叶える能力は備わっていませんでした。
私は今まで何度も転職し、その都度、人生のやり直しをして来たと言っていいと思っています。仕事に継続性が無いので成功していませんが、その都度、新しい仕事に適応してしぶとく生きてきたのです。真に雑草のごとく。
最近作った私らしい川柳があります。関西弁の川柳です。
それなりに生きてまんねん あほやけど
あほといえば、先日、吉本興業の芸人さんで坂田利夫さんがお亡くなりになりました。「アホの坂田」で有名で愛された人でした。芸人としてアホを貫き通した立派な人でした。私は・・・、ただ生きてるだけのアホやな。
3.瀬川さんの絵
漫画家の瀬川 環さんが、この川柳からイメージした絵を描いてくれました。
この絵の男性の呆然とした表情は、かつての私のようです。彼は今、人生のどん底にいるのでしょう。波消しブロックが見えますので海の近くの堤防に座っているのでしょうが、自殺の選択肢は消えたようです。
瀬川さんは私の川柳から三つほど浮かんだイメージがあったそうですが、この絵が最も川柳のイメージに合っていると感じたそうです。
夜明け前、辺りは無人で真っ暗ですが、朝日が昇ってくると次第に水色に世界が変わっていきます。そのときの冴えて澄んだ空気感を描いてくれました。こういう場面なら、過去の自分を清算して新しい自分に脱皮できそうです。
大丈夫!! ゼロからやり直す覚悟ができたら必ず良い方向に向かいます。沈んで沈んでどん底に達したら、そこから下はありません。あとは浮き上がるだけです。
何度でも水色になってやり直したらいいです。「やり直そう」という気持ちさえあれば、きっとできます。