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「問題は人によって態度を変えることではない。」
人によって態度を変える。
あの人の前ではいい人を演じる。
この人の前ではわがままな人になる。
つまりあいつはいい人に見えるだけであいつは本当は悪い人なんだ。
このような論調をあらゆる場所で私たちは遭遇する。
大切なのは本当の自分とは誰かではなく、どれくらいの分人をどれくらいの割合で持っているかではないだろうか。
さて分人とは?
個人(individual)とは「否定の接頭辞」(in)と動詞「分ける」(divide)に由来する(dividual)の構成の単語。
すなわち個人(individual )が「(もうこれ以上)分けられない」という意味であるのに対して、否定の接頭辞inをとってしまい、人間を「分けられる」存在とみなすのが分人であり、作家平野啓一郎によって名付けられた造語である。
マカロニえんぴつ、なんでもないよの歌詞の最後。
「君といるときの僕が好きだ」
私たちがあらゆる人間と関わる中で、心地が良いと思える相手がいる。
なぜ心地がいいと思えるのか。
それはまさしく「君といるときの僕が好きだ」からだと思う。
これは気持ちの悪いナルシズムではない。
気持ちの悪いナルシズムは他者を介さず自分だけを見ている。
私は私がもつ数ある分人の中で、「君といるときの僕が好きだ」と思えるものは幾つあるだろう。
関係性の中で分人を見出す。
全ては関係性の中で生み出される。
人によって態度を変える。
これは自然なことであり、非難されるべきものではない。
問題なのは、偏った関係性しか育むことができなかったものが、偏った行動のみでしか自分を表現することができないことである。
あの人の前では、あいつは態度を変える。それも悪い方向に。
それはあいつが悪い人だからではない。
単にその関係性の中で作用する分人が適切でないだけ。
私たちはあらゆる分人を生きている。
だから生きることができる。
平野啓一郎 「私とは何か」を読んで