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『代表以外』番外編 #6.5:宮沢克行氏 誕生日 記念コラム

 2024年9月15日―-。
 今日は何の日―――?
 宮沢克行氏、48回目の誕生日です!

 宮沢君、おめでとう!
(※ 普段は「宮沢君」と呼ばせてもらっているので、今回はそのノリで行かせていただきます)

 これがお祝いになるか甚だ怪しくはありますが誕生日記念ということで、『代表以外』で書くにはそぐわない彼との思い出の一部を、番外編として少し記してみたいと思います。


【 第1章『契約満了』その3 】に、以下のような場面があります。
 宮沢君が新潟のセレクションにて契約を勝ち取った後、浦和の練習に戻った日の描写です。

【 チームメイトはもちろんスタッフたちの幾人かもすでに家路に就き、駐車場には宮沢のパジェロだけが残されていた。
        (中略)
 着替えを済ませて平屋建てのクラブハウスを出ると、すぐ右手に置かれたベンチに顔見知りのライターがひとりで座っていた。
 試合出場の機会がない自分にも話を聞きに来る、親交のある数少ないメディア関係者だった。 】


(宮沢選手在籍時とまだ変わらない頃の大原サッカー場クラブハウス。
写真撮影・提供 清尾 淳 ※2003年4月に撮影)

 察しの良い方はお気づきと思いますが、この【顔見知りのライター】というのが私です。
「顔見知り」という形容は謙遜でもなんでもなく、2001年当時の彼との関係はまだまだその程度だったと思われます。
 ただし、この時点ですでに私には

《 浦和を契約満了となった宮沢克行がこれからどう再起していくのか、追ってみたい 》

 という欲求がありました。
 ですので、この日の内にその願いを素直に訴え、来季は新潟にも取材に行くつもりであることを伝えました。
 そして思い切って、こう切り出したのです。


「……そういうわけで、新潟に行くときは事前に連絡とかしておきたいので、携帯番号とかメールアドレスとか、教えてもらえたら大変ありがたいのだけど……ダメかな?」


 恐る恐る、そう頼んでみました。
 物凄く緊張したことを、今でも覚えています。
 異性に連絡先を尋ねるよりも、間違いなく重圧を感じていましたね。
 
 幸いにも、宮沢君は快く連絡先を教えてくれました。

 その後、アルビレックスが関東圏で試合をする際に出向くのはもちろん、何度か浦和から新潟へも足を運びました。
 新潟へ赴く際には事前に「●月●日に行って、●日間滞在します」とメールを送り、練習後や試合翌日に食事を共にしつつ話を聞かせてもらうといった『便宜』を図ってもらいました。
 その『便宜』は言い換えると、『私の下心が実現したもの』にほかなりません。大原サッカー場で連絡先を聞いたあの日の時点で、《 そういう特別な取材ができたら、ありがたいなぁ 》というゲスな願いを私が持っていたのは、言い逃れようのない事実です。

 しかしながら、宮沢君が示してくれた厚意はそれ以上のものでした。

 今後公開予定の【第3章】内で記すこととなりますが、彼が一員となった2002年当時のアルビレックスにはまだ専用の練習場はありませんでした。
 トレーニング会場は、日によって変わるという状態。
 場所次第では、新潟駅から車で1時間近くかかるような遠方ということもありました。

 そんなとき、宮沢君は「練習場所遠いから、一緒に行きましょう!」と言って、私が滞在しているホテルの前まで車で迎えに来てくれました。

《いやいや宮沢君、取材「される」側が取材「させてもらう」側にそこまでの便宜をはかるのはオカシイよ。人が好すぎる》

 というのが、最初に思ったことでした。
 ペーパードライバーの私は、バスやタクシーを駆使して何とか現場まで辿り着くつもりでいたのですが、最終的には彼の厚意に甘えさせてもらうことにしました。で、どうせならと、練習場までの往復時間も取材に充てさせてもらったわけです。【第3章】で記すことになる某エピソードなどは、そんな車中取材だからこそ出てきた話だったのかもしれません。

 
 私が一歩前へあゆみよれば、宮沢君も一歩あゆみよってくれました。
 私が次の一歩を躊躇しているとき、彼の方から次のステップを踏み出してくれたときもあります。
 それとは逆に、私が無遠慮な一歩を踏んだがために、彼が半歩後ずさった瞬間もあったかもしれません。

 そういったやり取りを通じて、私は彼との関係を構築していきました。
 最初は「顔見知り」にすぎませんでした。
 今は自信をもって『友』だと言うことができます。

 同時に、『恩人』でもあります。

 彼への取材を通じ、『選手との距離の詰め方』というものの多くを私は学んでいったような気がするからです。
 もし宮沢克行という人がいなかったならば、私が選手と関係を築くためのベースとした『経験則』は違ったものとなっていたでしょう。
 その経験は、書き記す内容へ如実に反映される類のものです。
 もし彼がいなければ、私が書くものは今とはまた異なる趣、テイストのものになっていたのではないか――。
 そんな気がしてなりません。
 その意味で、彼は今の私を形作った『恩人』のひとりであることは間違いのない事実です。

 ちなみに、『滞在先まで送り迎え』という宮沢君の厚意は山形へ移籍してからも変わらず続きました。
 冬の練習取材後には、「外で立ちっぱなしで冷えたでしょ? 温まりに行きましょう!」と、日帰り入浴でができる温泉へと連れて行かれ、共に熱い湯に浸かったことも何回かありました。

 宮沢君のそんな親身な協力があってこそ『素材』を集めることができたのが、この『代表以外』というノンフィクションです。
 その意味では、『代表以外』は私の作品というよりも、宮沢克行という友人との『共作』と称するのが正確なのだと思っています。

(了)


【追記】 トップ画像にも使用した上掲画像について


これは2012年、宮沢君がラストゲームを戦ってから数日後、内輪で開いた

『宮沢選手、お疲れさま!ありがとう!会』

にて、彼に手渡されたものです。
 この花束を用意してくださったのは、当時ピッチリポーターを務めていた成田ひみこさん、スタジアムDJを務めていた山内智香子さんのお二人。

 赤、オレンジ、そして青い薔薇は浦和・新潟・山形を象徴。
 しかも、その本数はそれぞれのクラブ在籍年数に合わせてあるという、「こだわりの逸品」でした。


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