『代表以外』あるJリーガーの14年 #5 第2章 雪降る街へ:その1
アルビレックスのセレクションから20日を経た12月26日、宮沢は再び新潟を訪れた。
新潟駅に降り立ってから向かったのは車で15分ほどの距離、信濃川にぶつかる手前にあるアルビレックス新潟のクラブ事務所。
2000年にできたプレハブ2階建ての建物だった。
青味がかったグレーの外観は、一見してプロサッカークラブのオフィスだとわかるようなものではない。
クラブハウス1階の一室に通された宮沢は、ふたり掛けのソファにひとりで腰を下ろした。
対面には強化部長の若杉と契約事務担当者。
彼らの間には小さなテーブルがあり、テーブルの上にはクリスタルガラス製の大ぶりの灰皿。典型的な応接セットだったが、まるで豪華さを感じさせないのは狭い室内に無理矢理収められているからだろう。
そして、テーブルの上にはA4サイズの紙が置かれてもいた。
契約書だ。
新潟でのセレクション後にオファーを受け、浦和に戻った宮沢は、翌日に参加予定だった湘南のセレクションをキャンセル。さらに12月10日の山形、12・13両日の大宮のセレクション参加も取り消していた。
新潟の一員になることを決意するのに、それほど悩むことはなかった。
新潟でのセレクションから埼玉に戻るまでの新幹線の車中で、ほとんと心は決まっていたからだ。
テーブルの上、宮沢に見えやすい向きで差し出された契約書はJリーグで統一された書式に則ったもの。今さら、各条項を読み上げたりする必要はなかった。レッズ時代から見慣れている。
ただし、記された数字はレッズ在籍時とは大きく異なっていた。
年俸欄に記された数字を見て、素直に思った。
《ホントに低いな……》
セレクション後に強化部長の若杉から「低いよ」と聞かされてはいたが、さすがにプロ1年目の半額だとは思わなかった。
しかし、記された金額に強い不満を抱いたわけではない。
純然たる事実として、本当に低いんだな、と感じただけだ。
宮沢にとっては、給料よりもサッカーを続けられることの方が、よほど重要だった。
何に注文を付けるでもなく、一応ひと通り契約書に目を通した後、2冊の同じ契約書――宮沢とクラブが1冊ずつ保管する――に名前を書き入れて捺印、さらに割り印を押していった。
この事務手続きを終えて数時間後には、宮沢のアルビレックス新潟への加入が浦和・新潟両クラブから発表される。
クラブ事務所を辞してからは、チームが紹介してくれた不動産会社へと赴いた。
宮沢の希望条件である「安いこと」、「自炊ができること」のふたつは事前に伝えてあり、それに見合う物件がすでにいくつかピックアップされていた。不動産会社のカウンターで数枚の間取り図を見くらべた後、「これ……がいいかな」とひとつを選び出す。
すると、対応してくれた社員が慌てて口にした。
「あっ、申し訳ございません。こちら、抜くのを忘れておりました。この物件、昨日決まってしまったったんですよ」
直後に男が口にしたのは、宮沢の来季のチームメイトの名前だった。
宮沢が興味を示した物件には、前日にクラブとの契約を済ませていた新たな同僚の入居が決まってしまっていたのだ。
《参ったな。家探すために1泊しなきゃいけないとなると、少し面倒だな》
できるだけ、不要な出費は避けたかった。
今後、金が入用になることはわかっていたからだ。
まずは携帯電話料金。
11月分の通話料は普段の倍はかかっていそうなのだ。
11月下旬に『呼び出し』の電話を受けて以降、身の振り方を決めるための相談を各方面に電話で長々としたためだ。おそらく12月分の通話料も相当な額になるはずだ。
さらにこれから引っ越しもしなければいけない。
そして、何より大きな出費となるのは車だ。
浦和に在籍している間、宮沢が乗っていた三菱パジェロはクラブから所属選手に無料貸与されていたもので、彼個人のものではなかった。
もう浦和の選手ではなくなるのだから、パジェロは返却しなければならず、一方で、新潟での生活に車は必要不可欠なものだった。
アルビレックスは専用のトレーニンググラウンドを有していない。
公共のグラウンドを借りて練習を行なうのだが、練習場所は毎日のように変わると告げられていた。しかも、交通の便が整っていない場所にあることも多く、車なしではやっていけないということだったのだ。
その後、不動産会社が親身になって探してくれたおかげで、多少の時間はかかったものの条件に合う物件がなんとか見つかる。
2階建てアパート、ワンルームタイプの2階の部屋。家賃は5万円台でトイレと風呂は別。駅から車で約20分の距離だった。
その日のうちに新居を決め、余計な宿泊費を使うこともなく浦和に戻ると、翌日にはこれまで通りレッズの練習に参加した。
リーグ戦は終了していたものの、まだ天皇杯が残っていたのだ。
「ミヤ、決まったって?」
練習場で、そう声をかけてきたのは福永泰。
在籍7年の福永は宮沢同様、今季限りでレッズを去らねばならない選手だった。
「はい、おかげさまで何とか……」
福永にそう返した。
この2001年末、浦和から契約満了を言い渡された選手は宮沢と福永のほか、93年に加入して9年間在籍した西野努とまだ1年目の岩本隼児。
また、宮沢とともに新潟のセレクションに参加していた川崎フロンターレの盛田剛平と小島徹のふたりも浦和からの期限付き移籍であり、彼らを含めれば計6人がレッズを去ることになっていた。
契約満了選手の身の振り方は、残されるチームメイト・スタッフ全員が気にかけていることではある。
ただし、誰もが直接当人に尋ねられるわけではない。
ほとんどの場合、仲の良い誰かが聞いた話がほかの選手へと伝わる形だ。そして、その伝播スピードは速かった。
西野には引退して浦和のクラブスタッフにとの誘いと湘南からのオファーがあり、現役続行か引退かで悩んでいるとのことだった。
岩本は獨協大学に在学中でもあるため、学業に専念するとすでに決めているようだった。
そして福永は、ベガルタ仙台と接触しているらしい――。
その情報は、宮沢の耳にも入っていた。
「ヤスさんは、仙台らしいって聞きましたけど……」
「うん、決まったよ。昨日サインしてきた」
その言葉に、宮沢は素直に驚きを表した。
「えっ、俺も昨日ですよ、サインしたの」
「マジで?」
互いの間に起きた小さな偶然に、周囲を少しだけ気にしつつ、ふたりは顔を見合わせて笑った。
宮沢と福永は特に仲が良かったわけではない。
むしろ、同じチームにいながら、どちらかと言えば交流の機会が少ないふたりだった。
福永は仙台と正式に契約を結んだことを、プライベートでも仲の良かった数人の選手を除き、誰にも報告はしていなかった。
チームが天皇杯を戦っている今、来年ここに居ない自分は極力目立たないようにしようと意識していたからだ。報告する義理はないという醒めた思いも、多少なりともあった。
にもかからず、仙台と契約したことを福永が話す気になったのは、ひとえに宮沢が同じ立場にあったからだ。
2001年も残すところ数日となったこの時期――。
決して口に出すことはなかったものの、宮沢が心の底に抱えていた思いがある。
《天皇杯、いつ終わるのかな……》
それが、偽らざる本音だった。
天皇杯はシーズンの最後を締めくくる大会であり、方式は一発勝負のトーナメント。そして、どのチームも天皇杯での敗退から数日のうちにオフへと入っていた。
つまり、天皇杯で敗退した時点でシーズンは終了となる。
81回目を迎えたこの年の天皇杯、J1の浦和はシードされ、トーナメント3回戦からの出場となっていた。
宮沢が加入してからの過去2大会、レッズの天皇杯での成績はリーグ戦同様にパッとしないものだった。
プロ1年目、1999年の天皇杯はJ2降格が決した直後。初戦となった3回戦には勝ったものの、つづく4回戦で敗退してベスト16止まり。
翌2000年大会も同じくベスト16で終わり、12月の半ば過ぎにはオフを迎えていた。
しかし、この2001年末はちがっていた。
12月9日、宮沢が新潟でのセレクションを終えた3日後、ヴァンフォーレ甲府との初戦を2-0で制すると、翌週の16日にはヴィッセル神戸を4-1で降し3大会ぶりにベスト8へ進出。
そして、宮沢と福永がそれぞれの新天地で契約を交わす2日前、12月24日にはジェフユナイテッド市原を2-1で破り、1996年大会以来となる準決勝進出を果たしていた。
《天皇杯で負けたら、そこでレッズの一員としての日々は終わるんだよな》
試合を見るときも練習の際も、宮沢の頭の隅をそんな考えが掠めたことが何度かある。
だが、それが「感傷」と呼ぶ域にまで達することがなかったのは、来季の新潟という「希望」が胸の内に大きなものとして存在していたからだ。
日が経つにつれ、心の隅で、天皇杯での勝利にどこか他人事のような気持ちが芽生えはじめる。
その感情が大きく育ってしまわないよう、押し殺そうと努めた。
出場機会が訪れそうもないのは相変わらずだったが、それでも、チームの一員としてレッズの勝利を願うべきだと考えていたからだ。
その一線はプロ選手の節度として弁えていたかった。
かつて、今の自分と同じような立場にあった選手たちがどう振る舞ってきたかは、しっかりと記憶している。
彼らは、自身とは無関係となったと言ってもいい天皇杯の間も、チーム全体のモチベーションを削ぐようなことは決してしなかった。
自分もそうありたいと、宮沢は願っていた。
契約満了という最終的な判断を下したクラブ上層部に対し多少は思うところがあったとしても、スタッフを含めたチームという現場の仲間たちは別だったからだ。
12月29日、天皇杯準決勝、セレッソ大阪戦。
場所は埼玉スタジアム。
宮沢はスタンドから試合を見守っていた。
妙な気分だった。
敗退を願う気持ちは更々ない。
しかし、「なんとしても勝って欲しい」と祈るような思いにまでは、至れていなかった。
勝てば、クラブ史上初の決勝戦進出が決まるにもかかわらず、だ――。
どんな試合でもそうだが、自分が出ていない試合にチームが勝っても、心の底から喜ぶことはできなかった。
2000年のJ2最終節にVゴールでJ1復帰を決めたときですら、そうだ。
ゴールの直後こそは喜び以外なかったものの、スタジアムを去る頃には、劇的な勝利と昇格の熱狂は体の内から完全に消え去っていた。
むしろ、そのシーズンで大してチームに貢献できなかった自分への腹立ち・不甲斐なさといった負の感情の方がよほど大きかったくらいだ。
セレッソとの天皇杯準決勝、前半は両チーム無得点で折り返すが、後半18分、レッズは先制を許す。その5分後、決定機を作り出すしたもののシュートミスでモノにできず、そのまま0-1で敗退する。
試合終了の瞬間を迎えても、やはり、あまり感傷的な気分にはならなかった。
むしろ頭の中は、これから新潟で生活するための準備をしなければという思いの方が大きく占めていた。
引っ越し、車の購入、それらに付随する煩雑な手続き。
やるべきことは少なくなかった。
試合終了から約2時間後――。
宮沢は練習場から車で数分の距離にある選手寮の食堂にいた。
監督をはじめとするスタッフ全員とすべての選手が揃い、4人掛けの四角いテーブル席に各自がついていた。
監督からシーズン終了の労いの言葉や挨拶があった後、宮沢や福永ら、退団する選手たちが一言ずつ挨拶をすることになった。
最初に挨拶に立った福永は、笑みを浮かべながら口にした。
「こういうことになったけど、また1年頑張って浦和に戻ってきます」
戻ってきます――実際のところ、契約満了となった選手がまた前のチームに雇われることはほぼ皆無だ。
つまりそれは、福永なりの冗談。あまり重い雰囲気にならないようにと気遣って飛ばした一種のブラックジョークだった。
浦和を去ることに対して、気持ちの整理がついていたからこそ発することのできた言葉だった。
しかし、チームに残る選手たちすべてが福永のような割り切りができていたわけではない。
彼のブラックジョークに笑う者はいなかった。
場は静まり返り、空気が読めていなかったなと福永は反省することになる。
福永の次が宮沢の番だった。
少し考えたが、型通りのおもしろみに欠ける言葉しか出てこなかった。
「新潟に行って僕も頑張るので、みんなも頑張ってください」
それ以外に言うべきことを、持っていなかった。
この日、2001年12月29日、天皇杯敗退によりシーズンは終わった。
しかし年が明けてからも、宮沢はレッズの練習場である大原サッカー場へと足を運んでいた。自主トレのためだ。
レッズとの契約は1月末日まで残っており、その間に使えるものは使わせてもらおうという腹積もりだった。そのことをクラブ側も特に禁じはしなかった。
新年の自主トレをはじめてから数日、いつものように駐車場に車を停め、土足厳禁のクラブハウス入り口で靴を脱ぎ、下駄箱のいつもの場所からサンダルを取り出そうとした――。
サンダルはなくなっていた。
各選手が使う下駄箱の場所は決まっており、それぞれの名前が書かれたシールが貼ってあるのだが、『miyazawa』とマジックで書いてあったそのシールも剥がされていた。
仕方なく靴下のままで更衣室へ向かったが、そこにある自分のものだったはずのロッカーも同様だった。
中に人ひとりが座れる大きさの、白い金網でできたロッカー。
その上部に貼られていた名前を記したシールが、剥がされていた。
契約満了が決まって以降、少しずつロッカーの片付けはしていた。
私物らしい私物はすでにほとんど持ち帰っており、残っているのは練習着と洗面道具程度だった。
それも、綺麗さっぱり消えてなくなっていた。
《レッズの、日本一熱いと言われるあのサポーターの声援を受けて、サッカーをしたい》
そんな願いを抱いて、プロサッカー選手としてスタートを切った。
3年が過ぎたいま、目の前には空っぽになった白いロッカーだけがある。
《もうレッズの一員じゃないんだな……》
契約満了を告げられて以降、そのことを最も痛烈に感じた瞬間だった。
(第2章 その2へつづく)