『代表以外』あるJリーガーの14年 #1 序章
福田正博は、この男を次のように評している。
「ひと言で言っちゃうと、『いいヤツ』ってやつだよね。
誰に聞いても、彼のことを悪く言ったりはしない、そういう性格のヤツだと思う。人間としてキチンとしてるし、気遣いもできる。一緒にいて気分を害するような人はいない、そういう人間なんじゃないかな」
だが、そのキャラクターは、サッカー選手としての成功をなにひとつ約束してくれるものではない。
むしろ、ときにはマイナスに作用することすらある。
プロサッカーとは、Jリーグとは、そういう業界だ。
そのことは、『いいヤツ』と口にした際に福田がたたえていた意味深な笑みからも、充分にうかがい知ることができた。
2010年5月26日、埼玉県、駒場スタジアム――。
大粒の雨を浴びながら、第4の審判員がピッチサイドに歩み寄る。かたわらには、黄色いユニフォームに身を包んだモンテディオ山形の選手が付き従っている。ラインの手前まで来ると、第4審判は手にしたボードを掲げた。
黒地のボードに赤く示された『7』。
その数字は、降りしきる雨のせいで少しだけ滲んで見えた。
自陣ペナルティエリア手前にいた宮沢克行は、交代しなければならないことを知り、一瞬だけ天を仰いだ。
思い直したように少し頭を振ってから、右腕のキャプテンマークを外す。チームメイトに手渡し、小走りでサイドライン際へと向かう。左足首に鈍い痛みを感じながら交代位置までたどりつくと、代わって出場する選手と両手を叩き合わせ、ピッチに向き直って深々と頭を下げた。
時間はまだ前半。
前半36分台――。
負傷ゆえの交代だったとはいえども、宮沢が最初に思ったのは
《もうちょっと長く、この駒場のピッチに立っていたかったな》
ということだった。
次に脳裏をよぎったのは、
《もしかしてこの交代時間って、『あのとき』と同じくらいの時間なんじゃないの?》
ということだった。
宮沢の《もしかして――》という想像は当たっていた。
10年前の『あのとき』も、同じ駒場スタジアムでの同じカード―― 浦和レッズ対モンテディオ山形――で、同じく前半36分にピッチを退いている。
ただし、ちがっていたものもある。
ボードに表示された自身の背番号、そして、着ているユニフォームの色だ。
この、駒場でのナビスコカップ予選リーグ・浦和対山形戦から遡ること10年――。
2000年のJ2では、シーズン中盤からコンサドーレ札幌が首位を独走、10月21日には4試合を残してJ1昇格を決めている。
残された1枚のJ1行きチケット。
その1枚をめぐってしのぎを削っていたのが大分トリニータと浦和レッズだった。
大分は悲願の初昇格を目指していた。
浦和は「日本一」とも言われるサポーターの後押しを受け、1年でのJ1復帰を自らに義務づけていた。
そのシーズン、大分と浦和が最後に直接まみえたのは、札幌が昇格を決めた翌日。
キックオフの時点で大分は勝ち点71で2位、浦和は69で3位。
しかし、試合はアウェイの浦和が2-0で勝利し、順位を入れ替える。
この大一番を、宮沢はレッズの選手寮で、帯同できなかった他のメンバーとともに見守っていた。
前年の1999年3月に明治大学を卒業してレッズの一員となっていた宮沢は、同年5月のデビュー戦でプロ初ゴールを挙げる活躍を見せている。
しかし、その後はパッとしなかった。
J1降格が決することとなった99年最終節、残留争いに苦しむチームの力になれない無力感を抱えたまま、メンバーから漏れた選手たちが集まったベンチ裏でその瞬間を迎えていた。
それゆえに、翌年に期するものは大きかった。
しかし、J2に落ちたからといって、出場数が飛躍的に増えることはなかった。降格直後から岡野雅行が中心となり、『1年でのJ1復帰』が合い言葉となっていた浦和。自ら望んで他所へ移籍する選手はおらず、チーム内での序列に変化はなかったからだ。
その序列を実力をもって変えることがかなわぬまま、宮沢はリーグ戦4試合に途中出場。その後、シーズン初先発を果たすのが2000年10月29日、J2第40節。
大分を最後の直接対決で降して2位へと上がった翌節、ホームに戻って迎えたゲームだった。
場所は駒場スタジアム。
対戦相手はモンテディオ山形。
小雨の落ちる中、16時過ぎにゲームははじまった。
左サイドのMFとして出場した宮沢は前半14分、ライン際を駆け上がった。前方では、2人の相手選手に寄せられながらも味方FWがボールをキープしている。その外側を走り抜け、パスを受けて前へ出ようと考えていた。
しかし、パスは出てこなかった。
ボールが相手に奪われ、自分が駆け上がってポッカリと空けてしまったスペースをまんまと使われる。これでカウンターを喰らったレッズは先制を許した。
失点からしばらく後、サイドライン際に第4審判が歩み出てボードを掲げる。
『28』という数字が自分を意味していることに気づくと、宮沢はリードされているチームの時間をわずかでも無駄にすまいと、駆け足でピッチを後にした。
前半36分だった。
後半になり、レッズは直接FKから同点に追いついたものの、Vゴールで山形の前に敗れ去る。
この試合以降、宮沢がレッズのユニフォームを着て公式戦を戦う機会は、ついぞ訪れなかった。
2010年5月26日、宮沢がキャプテンマークを山形のチームメイトに手渡して駒場のピッチを退いた後、彼らは2ゴールを挙げ、モンテディオがレッズを破った。
スタジアムの取材エリアに宮沢が姿を見せたのは、それから数十分後。
右足と松葉杖で身体を支えていた。交代理由となった左足首の負傷は重いものではなかったが、少しでも早い回復を目指してのことだった。
前半のうちに退いていたにもかかわらず、彼の周りは山形側・浦和側、両方の報道陣で溢れていた。左足に体重を掛けないように松葉杖で身体を支えながら、メディアからの質問に応えていく。
「僕がレッズにいたときのイメージは駒場の方が強いので、感慨深いものはありますよね。やっぱり埼スタとは雰囲気がちがうから」
J2でのあの日以来、宮沢が駒場で公式戦を戦うのはこれがはじめてだった。
レッズは2003年から主たるホーム会場を埼玉スタジアムへと移しており、この2010シーズンに駒場で開催される試合は、このナビスコカップ対山形戦だけだった。
宮沢が質問をさばいている間にも、旧知の浦和スタッフたちが彼の背中や肩を叩いては、かたわらを通りすぎていく。「大丈夫か?」と負傷を気遣う者も多かった。その度に宮沢は笑顔を向け、あるいは、チョコンと頭を下げて応えていた。
「ホテルから駒場までは新しく道が整備されていたり、町並みも結構変わっていたんで懐かしさはそれほど感じなかったかな。対戦相手として来たし、アウェイ側のロッカールームを使ったし、ちがうところも多かったから。でも、入場するときはやっぱり懐かしいなって。ピッチに入るときの音楽や雰囲気とか、昔と変わらない駒場だなと感じました。またこうやってここで試合ができるのはすごく嬉しく思いましたし、できれば、もうちょっと長くピッチに立っていたかったと思います」
宮沢から筆者に電話が来たのはこの対レッズ戦前夜だった。
浦和レッズの一員として最後に戦ったチームがモンテディオ山形。
10年を経て、そのチームのキャプテンとして、彼は戻ってきた。
しかも、会場はあの日と同じスタジアムだ――。
そのことをどう感じているのか、尋ねてみた。
「当たり前だけど、レッズに入ったときはこんなことになるなんて、思ってもいなかったですよ。ずっとレッズにいるつもりだったから」
電話の向こうで、宮沢が苦笑いしているのがわかった。
彼のプロサッカー選手としての足跡は、お世辞にも華々しいとは言えない。日本代表など候補に名前が挙がったこともない。所属したクラブでも、レギュラーでいる時間の方が圧倒的に短かった。世間の尺度に照らして「栄光」とされるようなものは、何ひとつとしてない。
それでも、彼の足跡を記しておきたい、と思った。
その衝動を最も強く感じたのは、彼がこう漏らした瞬間だ。
「1年目は、『10年後はどうなっていたい』とか、その先まで夢を描くことができたけど、2年目になると『今年はどうなるのかな』とか『来年このチームにいられるのかな?』とか、そういうことばっかり考えてしまってましたからね」
そう言って、宮沢は「へへへ」と笑った。
本音を漏らした後に、照れ隠しに笑う。
彼の癖のひとつだった。
今だから、そんなふうに笑って話せるのだろうな、と思った。
もちろん、レッズのユニフォームに袖を通してから山形のキャプテンマークを巻くまでになる間の10年という長い時間を、将来への不安を意識の表層に浮かべたまま暗く過ごしてきたわけではない。サッカーをすることで得られる喜びは、決して小さいものではなかったからだ。
だが、不安は常に心の奥底に沈殿しており、ふとしたきっかけで水面へと浮かんでくるものでもあった。
同じようなことは、大多数のJリーガーにも当てはまる。より具体的に言えば、日本代表とは縁遠い9割近い選手たちにも――。
本稿では、宮沢克行という平凡なJリーガーが辿った14年の軌跡を記していく。
だが、これは彼だけの記録ではないと思っている。
これから綴るのは、多くのJリーガーの、『代表以外』の物語だ。
(第1章へ つづく)