『代表以外』あるJリーガーの14年 #10 第3章 Stay Gold :その3
試合を終えた夜は、なかなか寝付けない。
眠れたとしても、半覚醒のような状態が多い。
セレッソを5-2で降した夜は顕著だった。
数時間前までの興奮の残滓が漂う神経は昂ぶったまま、眠りに没入できなかった。
明け方になんとか眠りにつき、昼前には起きた。
部屋のなかはこざっぱりしたものだ。
家具らしい家具は、浦和から持ってきたソファベッドとテレビ、冷蔵庫、炊飯器、洗濯機、テーブルとパソコンなど。
彩りと言えるようなものは、これも浦和から持ってきたラベンダー・デンタータの鉢植えと壁に貼った世界地図くらいだった。
地図は新潟に来てから購入した。
サッカーは世界につながるものであり、それを日々意識していたかったからだ。
ただし――。
本当はセピア色のアンティーク調のものが欲しかったのだが見つからず、小学生の勉強部屋に貼られているような、地図の脇に国旗一覧が載っているものしか見つけられず、それで妥協していた。
もともと殺風景な部屋がさほど気にならない質(たち)ではあったが、必要最小限の家具以外、買い揃える気にはならなかった。
《いつまた他のチームに移ることになるかも、わからないんだし……》
潜在的な恐怖に近いそんな気持ちが、身の回りを充実させることから背を向けさせていた。
試合翌日のこの日、トレーニングは16時から。
朝食兼昼食を取り、食休みして14時には練習場所へと車を向かわせた。
愛車は日産アベニール サリュー。
外観は自家用車よりも商用車の要素が強い。同じ型の別モデルである「アベニール ワゴン」は白いボディに黒いバンパーで、全国各地を営業車として走り回っている。
自身の車を宮沢は気に入っていたのだが、チームメイトたちからは「その作業車で、どこに行って工事やるの?」とからかわれることがあった。
実際、宮沢の家の前に同じ車が停まっていたことがあり、なんとはなしに覗いてみたところ、後部に工具類が積まれているのを目にして落ち込むという経験をさらに後になってすることになる。
愛車にカーナビは付けていなかった。
欲しかったが、予算の問題もあって我慢した。
幸い、新潟市の道路は碁盤の目状に整備されている箇所が多く、地図を見てルートを頭に入れれば、大抵の場所には迷うことなく辿り着けた。仮にルートを忘れても、路肩に一時停車してグローブボックスに入れてある道路地図を確認すれば事足りた。郊外の交通量はそれほど多くはなかったし、新潟市内の車が多いルートは、片側だけで三車線という広さがあり、一時停車も気兼ねなくできる。この精神的な余裕の有無は、さいたま市内の運転とは大きくちがう点だった。
だから、宮沢が車での移動に苦労することはほとんどない。
しかしながら、それとは別種の戸惑いがあった。
この道でいいのか、次はどの交差点で曲がるのか、自信がないとき、ついついダッシュボード上の中央部に目をやってしまうのだ――。
そこは、浦和時代に乗っていた三菱パジェロならばカーナビが設置されていた場所だ。
新潟に来て数ヶ月、かつてはあったカーナビの位置に視線を向ける癖が抜けなかった。
《あっ、もうカーナビはないんだっけ……》
それは、浦和を契約満了となった過去と直結しているものだった。
視線をやってしまうその度に、チクリとだが胸の奥が痛んだ。
この日の練習場所は新潟市の南にある白根カルチャーセンター。
ハンドルを握りながら、チームのマネージャーが書いてくれた簡単な地図に時折目を落としてルートを確認しつつ、40分ほどで目的地へと到着した。
練習開始の16時まで、まだだいぶ時間があった。
駐車場には、選手やスタッフたちが乗る見知った車はまだ停まっていない。
宮沢は練習開始の1時間半前には到着するのが常だった。
大抵は一番乗りだ。
選手だけではなく、練習の準備をするスタッフより早いときもあった。
とはいえ、それはスタッフの怠慢などではない。
自前の練習場がないアルビレックスは公共の施設を時間単位で借用していた。そのため、いくらスタッフが早く来たところで、使用開始時間が来るまでは準備もできないのだ。
誰の姿も見あたらず不安に駆られた末、マネージャーに「本当にここでいいの?」と電話したこともある。
16時となり、白根カルチャーセンターではじまったトレーニング。
宮沢を含め前日の試合に出場したメンバーは、コンディション回復を目的とした軽めのメニューだった。
青地に白いラインの入ったアップスーツに身を包んだ彼らは、ピッチの周りをジョギングで周回。
湿気を含まない空気はひんやりとしている。
4月も下旬だというのに、宮沢はまだグラウンドコートを仕舞うことができず、常時車に積み込んでいるほどだった。
ジョギングする隊列の中程を、3つ年上のDF小林悟と談笑しながら走る。その後は、ボランチでコンビを組む安英学とも併走した。
グラウンドの四方を取り囲むように設けられた土手には、平日にもかかわらず、練習を見学するファンの姿がちらほらと見られた。
ジョギング後、ストレッチやボール回しなどをこなして、試合に出場した選手たちの全メニューは50分ほどで終了した。
だが、宮沢はグラウンドに残ったまま。
さらにストレッチをし、ボールをいじり、15分ほどをグラウンドで過ごしてからようやく体育館へと向かう。
体育館へと足を向けたのは、シャワーと着替えのためだ。
練習会場の中にはシャワーや更衣室がない施設も稀にある。そんなときには各自が車で着替えるのが新潟での日常だった。
体育館へと向かっていると、先ほどまで見学していたファンたちが寄ってきてサインをねだられ、5分ほどをファンサービスに費やした。
浦和時代にもサインを求められることはあった。
だが、ベンチに入ることも少なかったあのときと試合に絡んでいる今とでは、ファンサービスをする側もまるで気分がちがうものだった。
セレッソに5-2と大勝した後の、つづく第12・13節とも宮沢は先発。
13節の湘南とのゲームではフル出場。
プロになって初めてのことだった。
チームの勝利もあり、特別の充実感を味わう。
だが、だからこそ、改めて自戒するところもあった。
《ただ単に90分交代せずに出場したらいいというのではなくて、自分が出た時間にどんなプレーができたか、どのくらいチームに貢献したか、観に来てくれたお客さんが楽しめたか、そして勝ったのかという方が大事だ》、と。
つづく第14節鳥栖戦では、先制弾を決める。
大宮戦での直接FKからのゴールにつぐシーズン2得点目、ホームゲームでは初だった。右サイドのクロスにニアポストで味方FWと相手GKが競り合い、こぼれたてきたところを左足で蹴り込んだ。
ゴールカバーに入っていたDFに当てないよう、集中して決めたゴール。
この宮沢の得点は前半21分。
その後2点目が入るまでは多少の時間がかかったものの、終わってみれば6-2という大勝を飾る。
この鳥栖戦での勝利で新潟は6連勝を記録。
順位はJ1昇格圏内の2位へ。
新潟にとっては3年ぶりの好順位だ。
しかし、宮沢はこの鳥栖戦後半6分に味方と接触して左ひざを打撲、担架で運ばれて交代していた。
それでも翌15節の山形戦には先発。
後半の12分にベンチへと下がったものの、その10分後にマルクスがゴールしてチームは1-0で勝利。
アルビレックス新潟は連勝を7に伸ばし、J1自動昇格圏内の2位をキープ。リーグは日本と韓国が共催するワールドカップのための中断期間を迎えた。
2002年6月4日、埼玉スタジアム。
ベルギーと対戦した日本代表は先制された2分後、鈴木隆行がつま先でボールをプッシュして同点とする。
新潟の自宅でテレビ観戦していた宮沢も、見る者の魂をゆさぶるような鈴木の同点弾に興奮した。
しかし、時間が経つにつれて、若干の苦い思いがこみ上げてくる――。
鈴木隆行とは同じ歳だった。
互いにトップチームの試合には出られない時期があり、サテライトリーグで対戦した経験もある。
《それなのに、この差はなんなんだろう。努力なのか、環境なのか、めぐりあわせなのか……。何かが違うから、彼が日本代表として出ているわけで……》
才能の差かもしれないという考えも浮かんだ。
しかし、そうなのだと認めたくはなかった。
日本サッカー史に刻まれることとなるベルギーとの対戦は、稲本潤一のゴールで一時は逆転するも追いつかれ、2-2で終了となる。
それでも、日本代表は初めてW杯本大会での勝ち点を獲得。
その後にロシアを1-0、チュニジアを2-0と破って決勝トーナメントに駒を進めることとなる。
W杯がはじまる数ヵ月前――つまりは、新潟のセレクションを受け、合格を勝ち取ってからしばらくの間――まで、宮沢のうちには多少なりとも醒めた思いがあった。
《ひとりの日本人としては、もちろん代表を応援したいとは思うけど……》
彼らが同業者だと思うと、批判的精神なしにただ応援するのが果たして正しいのか、との思いがあった。
かつてないほどに注目を浴びる日本代表と自分が置かれている立場を無意識のうちにくらべてしまい、羨望の念が生じるのを止められなかった。
その反動から、W杯に醒めた態度を取ってしまう自分がいることは否定できなかった。
しかし、新潟で試合出場を重ね、多少なりとも満足感を抱くようになると、日本代表に対して抱いていた羨望の念は、W杯が始まる頃には消えてなくなっていた。
日本が決勝トーナメント進出を決めた翌日の6月15日には、ビッグスワンでデンマーク対イングランドの試合をアルビレックスのチームメイトらと観戦。スタジアムに到着したバスから降り立った瞬間にはただの一サッカーファンと化し、いつもは嫌っている人混みすら、4年に一度のお祭りの象徴として心地よく思われるほどだった。
試合を見て学ぶところは多かった。
特にイングランド代表選手たちのボールの置きどころ、パスのタイミング、シュートの積極性などは勉強になった。
ワールドカップに生まれてはじめて生で接することができたのは素直に嬉しかった。イングランドが3-0でデンマークを破った後には、また観にいきたいとも思った。
さらに言えば、まがりなりにもサッカー選手なのだから、自分自身が《あんな大舞台でプレーしたい》と思わされた。
なお、このデンマーク対イングランド戦の日から、チームのトレーニングも再開。1ヶ月以上前の鳥栖戦で負った左ひざの打撲はまだ完治したとはいえなかったが、宮沢も同僚たちと共にトレーニングを行なっている。
W杯期間中には、浦和時代にはない経験もあった。
中学校の巡回指導だ。
6月26日、DFの小林悟と共に新潟市中心部に近い上山中学校へと出向いた。現地でアルビレックス・サッカースクールのコーチと合流し、サッカー部の指導にあたった。
センタリングシュートではクロスを上げる役をこなし、FKの見本も示し、壁役として立った部員にボールをぶつけてしまう一幕もあった。最後に行なった7対7のミニゲームでは、リードされた後にドリブルで持ち込んでゴールを決めるという大人げないこともやってのけた。
お世辞にも「指導」と呼べるような状態ではなかったが、開始前に抱いていた不安が嘘のように、宮沢にとってはとても楽しい時間となった。
ワールドカップで高いレベルのサッカーに触発され、中学校でかつての自分を見るかのような少年たちと共にボールを蹴った。
この中断期間で、サッカーへの情熱は十分すぎるほどに充電されていった。
(第3章 その4へつづく)