『代表以外』あるJリーガーの14年 #13 第4章 アイシテル ニイガタ:その2
2003年、J2開幕戦から第7節まで、宮沢は先発出場をつづけた。
理由はふたつ。
ひとつは、好調だったというシンプルなもの。
もうひとつが、新外国籍選手ファビーニョが開幕前にケガを負っていたということ。
ブラジル人のファビーニョは、チームがJ1昇格のために大きな期待――元日本代表ボランチ・山口素弘へ寄せたものと同様の期待――をかけて獲得した選手だった。
背番号は『9』。
ポジションは左サイドの中盤から前線をカバーする攻撃的なもので、宮沢と同じ。持ち味こそ、宮沢のセットプレーに対して、ファビーニョはドリブルとパンチ力のあるシュートという違いはあったものの、利き足は同じ左足だった。
そのファビーニョの負傷が癒え、戦列に加わったのが第8節。
対戦相手は、川崎フロンターレ。
サンフレッチェ広島と並び、J1から降格してきた昇格争いのライバルチーム。
しかも試合はアウェイでのものだった。
この試合、新潟は1-0での勝利を飾る。
ゴールを挙げた選手こそはファビーニョだった。
前節まで先発出場をつづけていた宮沢はこの試合、ベンチメンバーとなることも叶わなかった。
つづく第9節、宮沢はベンチへと入る。
チームは後半9分に先制され、その10分後、ファビーニョと交代でピッチへ投入される。
当然、指揮官からは同点ゴールを生み出すようなプレーを期待された。
しかし、新潟はそのまま0-1で敗れる。
翌10節でも2-2と同点とした後の74分、逆転を期待されて投入されたが、試合はそのまま終了。
各プレーのディテールは別としても、『結果』だけを見れば、ファビーニョと宮沢の間に差があると判断されても、反論は難しかった。
その後の2試合、宮沢はベンチに入るものの出番は無し。
3試合目の第13節、ファビーニョの負傷により約ひと月ぶりの先発を果たす。しかしながら、前半だけでベンチへと下げられてしまう出来。
つづく14節では、ベンチからも外れた。
ここぞ、という場面で結果を残せぬまま、宮沢は日々を過ごしはじめる。
夏には、ふたたび先発出場を果たすこともあった。
ただし、そのどれもがファビーニョが出場停止やケガでプレーできないため、巡ってきた機会ばかりだった。
ファビーニョと共に試合開始からピッチに立つことはわずかしかなかった。
1度目は8月23日の第29節。
その頃にはすでに、昇格争いは3チームに絞られはじめていた。
首位・アルビレックス新潟、勝ち点57。
2位・サンフレッチェ広島、勝ち点53。
3位・川崎フロンターレ、勝ち点50。
首位を走る新潟は、この29節で背後に迫る広島とホームで対戦。ファビーニョの2ゴールもあり、結果は3-1。このシーズンの対広島戦初勝利でもあった。
ファビーニョと共に開始からピッチに立った2度目が、10月最後のゲーム、ホームでの第40節甲府戦だった。
この甲府戦を迎えるまでの数試合、チームは黒星と白星を1試合ずつ繰り返す不安定な成績しか残せていなかった。
第35節、広島に0-1●。
第36節、鳥栖に2-1○。
第37節、川崎に0-3●。
第38節、山形に4-1○。
第39節水戸戦は0-1の●。田中マルクス闘莉王の打点の高いヘディングシュートを抑えきれず、帰化したばかりの彼に『闘莉王』としての初ゴールを許すこととなっていた。
この39節の結果、新潟はなんとか首位を保ってはいたものの川崎と広島に肉薄される。
新潟、勝ち点78。
川崎、勝ち点77。
広島、勝ち点76。
残りは5試合――。
強烈な追い上げを、新潟は受けていた。
そんな状況で迎えた10月26日の第40節ヴァンフォーレ甲府戦。
ビッグスワンにはここまでのシーズン最多となる4万2199人が詰めかけた。
宮沢の先発は9月27日以来、ほぼひと月ぶりだった。
0-0で迎えた前半の30分、右サイド、ハーフウェイラインを10メートルほど越えたあたりで新潟はFKを獲得する。
キッカーは宮沢。
短い助走から左足でゴールに向かい直進するライナー性の長いボールを送る。相手ディフェンスラインの頭上を越えたボールが、『裏』へと届く。「絶妙」と評してよいものだった。
そこに、長身FW上野優作がエリア左から走りこむ。
ゴールほぼ正面、上野が頭で捉える。
次の瞬間、ゴールネットが揺れるのが宮沢にも見えた。
宮沢のFKを起点に先制した新潟は、後半31分にマルクスが追加点を挙げ2-0で勝利する。
これで新潟の勝ち点は81へ。
2位川崎・3位広島とも同節では引き分け、川崎勝ち点78、広島77とわずかにだが差は広がる。
監督の反町は、この一戦で宮沢を約ひと月ぶりに先発起用した理由を、次のように語った。
「今日はセットプレーから宮沢が一本行くだろうという予想をしていたので。あとは、ちょっとチームの中に変化を与えた方がいいかなということもあります」
指揮官の『勝負勘』を見事に現実のものとしてみせた宮沢だったが、つづく札幌とのゲームでは後半から途中出場。結果は残せず、試合は2-2の引き分け。
全44節の41試合を終えて、首位・新潟の勝ち点は82。広島80、川崎78。
残る試合は3つ。
胃がキリキリとするような昇格争いが大詰めを迎え、メディアが最も注目したのはアルビレックス新潟だった。
首位だから、だけではない。
広島も川崎も、J1経験のあるチームだ。
一方の新潟は、昇格すれば初のJ1となる。
これまでは各スポーツ紙の番記者を含めた地元メディアがせいぜいだったのが、一般紙の東京本社やテレビキー局からも取材クルーが新潟のトレーニングに訪れるようになる。
現場は騒がしくなりはじめていた。
しかしながら、大勢の報道陣の来訪がチームに余分な緊張をもたらしたかといえば、少なくとも宮沢にとってそうではなかった。
《やってやろう》という高揚感の方がむしろ大きかった。
だが、昇格争いとはまるで別のところで、心の水面を少しだけ揺らめかせる出来事があった――2003年11月3日、雨の降りしきる国立競技場でのナビスコカップ決勝戦。
対戦カードは、鹿島アントラーズ対浦和レッズ。
素直に応援できる自信は、宮沢にはなかった。
しかし、どうにも気になってしまい、無視することもできない。
結局、複雑な思いを抱きながら、14時過ぎのキックオフから自宅のテレビで見守ることになる。
前半13分にレッズは先制。その後、エメルソンと田中達也が得点を重ね、守備ではDF坪井慶介が眼の直上、眉毛のあたりに裂傷を負いながらもプレーを続行し奮闘。
これまで苦杯を舐めさせられることの多かった鹿島に4-0と快勝する。
クラブ史上初となるタイトル獲得だった。
《……勝っちゃったか……》
それが、最初に湧き上がった素直な感想だ。
1年と11ヶ月前までは、自分もあのクラブの一員だった。
追い出されたクラブの初戴冠を、諸手を挙げて祝福できるようになるには、時間が足りなかった。
《まだまだ大人になれてないな……》
そう、ひとりごちる。
それでも、テレビモニターに映し出される画の中に、かつて共に過ごしたチームメイトやお世話になったスタッフの笑顔を見つけると、《ああ、勝ってよかったな》という思いも湧いてくる。
そういった人たちには、素直な気持ちで【おめでとうございます!】と題した祝福のメールを送った。
また、翌日の報道で、興奮したサポーターがスタンドから飛び降りてエメルソンを揉みくちゃにした際に彼の優勝メダルが紛失してしまったこと、試合後の記者会見で監督のハンス・オフトが今季限りでの辞意を表明したことを知り、少しだけ懐かしい気分を味わいながら、クスリと笑ってもいた。
《そういうドタバタ劇があるところは、なんだかレッズらしいよな》と。
《こうやって、クラブの歴史って作られていくんだろうな……》
羨望、嫉妬といった負の感情は大きくはないものの、たしかに胸のうちにあった。
だが、それがいたずらに肥大せずにすんだのは、自身がJ1昇格を目前とするアルビレックス新潟の一員だったからだ。
《オレたちも、新潟の、アルビの、歴史を作っていくんだ》
そう決意を新たにしていた。
(第4章その3へつづく)