『代表以外』あるJリーガーの14年 #11 第3章 Stay Gold :その4
「大五郎カット」で話題となったロナウドのゴールで、ブラジルがドイツを2-0で破りワールドカップ優勝を遂げた6日後、2002年7月6日。
J2は第16節から再開。
新潟は博多でアビスパ福岡と対戦した。
左ひざの負傷からまだフルコンディションに至っていない宮沢はベンチスタート。結局最後まで出番はなかったが、チームは1-0の勝利で再開初戦を飾り、J1自動昇格圏の2位の位置をキープした。
翌7日、新潟に戻った宮沢は新発田市で行なわれたサテライトリーグの試合に出場する。
サテライトリーグはトップチームでの出場機会に恵まれない選手の実戦機会創出を目的に行なわれている。J1・J2というカテゴリーの区別はなく、地域的に近いチーム同士の組み合わせでリーグが構成されていた。
この日の対戦相手は、浦和レッズ。
サテライトリーグの日程が発表されたときから、《この試合には、できることなら、出たくないな》と思っていた。
《やっぱり、レッズと初めて対戦するのはトップチーム同士の試合がいい》
そんな意地があった。
だが実際のところ、試合会場に着いてみると、かつてのチームメイトたちとの7ヶ月ぶりの再会には予想していた以上に素直な嬉しさがあった。
知っている顔ばかりが並ぶ相手を前に、試合中は《敵なんだ》ということを意識的に念頭に置いてプレーしていたが、その前後には互いに笑顔で言葉や握手も交わしていた。
先発した宮沢は、得点こそ挙げることはなかったもののフル出場、チームは3-1で勝利する。
終了後には、遠路はるばる新潟までやってきたレッズサポーターから「頑張って」との声を掛けられ、励みになった。
もちろん、レッズサポーター同様に新潟のサポーターも会場には駆けつけており、彼らからも拍手やコールを受けている。
この日、自分が着ていたユニフォームはアルビレックス新潟のものであって、浦和レッズのものではなかった。
かつて所属していたチームとの対戦は 《自分は新潟の選手なんだ》 という『現在』をあらためて強く意識させる出来事となる――。
新潟という地が、宮沢は好きだった。
浦和から居を移して半年。
冬の寒さと雪には、まだまだ「慣れた」とは言い難かった。
それでも、食べ物は美味しく、都会と田舎が適度に融合した新潟の街はノンビリとした自分の性格にはちょうど良いと感じていた。
自分を、チームを応援してくれるファン・サポーターたちは優しかった。
レッズでならばブーイングされそうな敗戦後でも、新潟のサポーターたちは拍手を送り、「次、頑張れよ」と励ましてくれる。
時にはブーイングという厳しい意見こそがチームや自分のためになるということを頭では理解できていたが、敗戦直後の感情としては新潟サポーターの拍手の方が心に染みた。
彼らのリアクションは、宮沢にとってはまさに「温かい」のひと言に尽きたのだ。
サテライトリーグでのレッズとの古巣対戦は、新潟への『帰属意識』をあらためて確認させるもので、そんな意識の強まりは素直に良いことだと思えた。
だが、ほんの少しだけ、寂しくもあった。
宮沢がJ2リーグ戦のピッチに復帰したのは、サテライトリーグのレッズ戦後1試合を消化してから。J2が再開しての3試合目だった。
2002年7月13日、第18節セレッソ大阪戦。
しかし、出場したのは後半途中交代でのわずか7分間。
つづく19節では11分間、20節では再び7分間。この20節では、川崎に0-2と敗れ、4月14日に同カードに勝利以降つづいていた10勝1分けという無敗記録がついにストップしてもいる。
それでも、チームの順位はJ1昇格圏内の2位をキープしていた。
川崎に敗れた翌21節の試合は甲府を1-0で下し、その後の首位・大分との直接対決にはアウェイで1-1という上出来の結果を残す。
この2試合、宮沢はベンチ外となっていたが、つづく8月7日の第23節、ビッグスワンでの山形戦に、5月12日の同カード以来となる先発を果たす。
《とにかく、落ち着いてやろう。余計なことは考えず、でも、積極的にいこう》
それが、試合前に考えていたことだった。
だが、実行は難しかった。
試合開始40分前の18時20分過ぎ、ウォーミングアップのためにピッチに立つと、ホームを埋めたサポーターの熱気に当てられ、宮沢の興奮は高まる一方となる。
夕方とはいえ、8月のピッチの上は蒸し暑かった。
芝生が昼間の熱気と湿気をはらんだままで、それが立ち昇ってくるようだった。暑さに、体が動くかと不安を覚えもした。
この試合、新潟は2-0で勝利する。
どちらのゴールも宮沢が挙げたものだった。
1点目は開始5分、ゴール前で相手クリアボールがこぼれたところを左足で蹴り込んだ。
早い時間に挙げたゴールは、何よりも自分を落ち着かせてくれた。
2点目は後半の2分、FKからゴール右上に決めた。
そして宮沢は、ピッチに立ったまま試合終了の笛を聞く。
フル出場は3ヶ月前の湘南戦につづいてプロになって2度目、1試合2ゴールという記録はプロ初だった。
しかしながら、余韻に浸っている暇はない。
3日後には、大阪でのリーグ戦。対戦相手のセレッソはわずかに勝ち点2差でひとつ下の3位に着けているチームだ。
約3ヶ月ぶりのフル出場から中2日、疲労が抜けきっていない宮沢はベンチスタート。
前半を0-0で折り返すと、後半開始からピッチへと送り込まれる。
監督から言われずとも、前節2得点した活躍の再現を期待されていることはわかっていた。
しかし、決定的と言えるほどの仕事はできないまま、J2記録を塗り替える4万2211人の観衆が見守った試合は、スコアレスドローに終わる。
新潟としては、欲を言えばここで勝って差を広げておきたかった。
しかし、敵地での試合であることを考えれば、勝ち点差の広がらない引き分けでもよしとすべきところでもあった。
セレッソ戦から6日――。
8月16日、第25節、大宮アルディージャ戦、宮沢は先発する。
会場となったのは埼玉スタジアム。
メインスタンドから左手のゴール裏には、ホーム大宮をはるかに凌駕する数のサポ―ターが新潟から駆けつけていた。
「ミヤザワッ、ミヤザワッ、ミヤザワッ――」
19時のキックオフを前に、ウォーミングアップ中からサポーターはコールを送りつづけてくれた。
2試合前の山形戦での2得点という活躍、そして彼の育った埼玉での試合ということもあり、「ミヤザワ」コールは圧倒的に多かった。
埼玉での試合、『相方』である盛田剛平との対戦、宮沢の気持ちをいつも以上に高める要素はいくつかあった。
だが、何よりも強かったのは、《勝ちたい》という欲求だ。
新潟の2位に対して大宮は5位。
順位ではまさっていたものの、過去2戦は新潟の1分け1敗。決して分の良い相手とは言えなかった。
しかも、自分が出場していたのは敗れた方の1試合――宮沢の勝利への飢餓感は高まるばかりだった。
キックオフ8分前、ロッカールームを出てピッチへと上がる階段の手前、ホール状のスペースで審判団からスパイクやスネ当てなどのチェックを受ける。
大宮の選手たちも、同じように確認を受けている。
大宮のスターティングイレブンに『相方』の姿はない。
盛田はこの日、ベンチスタートだった。
しかし、盛田以外にもよく知る顔があった。
「安(あん)ちゃんっ!」
大宮のゴールを守ることになる安藤智安を見つけ、声を掛けて右手を差し出した。
2歳上のGK安藤は、宮沢が浦和にいた3年間を共に過ごしている。彼は出場機会を求め、3ヶ月前に大宮へと移籍してきたばかりだった。
「おうっ!ミヤ~!」
固い握手を交わすと、すぐさま安藤が切り出してくる。
「ミヤ、今日はどっちに蹴んの?右?それとも左?」
安藤が言っているのは、FKの際にゴールのどちら側を狙うのか、だった。
試合前に交わすにしては中々に突っ込んだ会話で、昔馴染みならではと言えた。
同時にこれは、一種の心理戦でもあった。
わざとらしくニヤつきながら返す。
「う~ん、どっちに蹴ろうかなあ~」
そんなやり取りをして間もなく、二人はそれぞれの同僚と共に整列。
審判団につづいてピッチへと至る階段を昇った。
最初に得たFKのチャンスは前半16分。
FW船越優蔵がゴールを背にボールを貰う際、ファウルを受けて得たものだった。
場所はペナルティアークのすぐ外。
宮沢はすかさず駆け寄り、ボールをセットした。
間を置かずチームのエースであるマルクスも、「オレが蹴るよ」と言いたげな表情で傍に寄ってきた。
譲る気はない。
ゴールはほぼ正面、若干、左寄り。
右利きのマルクスが蹴るよりも、左利きの自分向きの角度だった。
ゴールまでの距離は約18メートル。
そのゴールの向こう側にあるスタンドには、新潟サポーターが陣取っていた。ボールをセットした宮沢の姿に促されるかのように、彼らの歌声がスタジアムに響きだす。
「ミーヤザワー ゴールを狙えー おーれらとー共にたたかおー
ミーヤザワー ゴールを狙えー おーれらとー共にたたかおー」
アップテンポなリズムに乗せた歌詞のすべてを、聞き取れてはいなかった。
なにしろ、初めて耳にするものだったから――。
しかし、その歌詞の中に自分の名前が埋め込まれていることだけは、しっかりと理解できていた。
この応援歌の原曲となったのは、日本を代表するパンクロックバンドのひとつ、Hi-STANDARDの『Stay Gold』。後日、サポーターからこの曲が入ったCDをプレゼントされ、知ることとなる。
レッズ在籍時、結果らしい結果を残せなかった宮沢に個人の応援歌が作られることは終(つい)ぞなかった。
初めての、自分のためだけの応援歌――。
全身に鳥肌が立つ。
サポーターが唄ってくれている歌を意識の端に聞きながら、試合へと集中すべく努力した。
考える――。
《安ちゃんは、どっちに跳ぶかな……。試合前に話した感じだと、オレが前の試合で右側に決めたことは当然知っている感じだったな・・・・・・》
考えがまとまらない。
雰囲気に流されるかのようにセットしたボールへアプローチしそうになり、慌てて意識と身体にブレーキを掛けた。
《焦るな。間を空けろ。ゆっくり。落ち着いてからでいい……》
自分にそう言い聞かせ、ひと呼吸置いてから助走に入り、ボールの右脇に右足を踏み込んだ――。
『相方』の盛田剛平は、宮沢がボールをセットする様子を大宮ベンチ脇のウォーミングアップスペースから見つめていた。
この第25節大宮対新潟戦まで、宮沢と盛田は互いに4得点を挙げている。
サッカーは個人競技ではないと盛田も十分に承知していたが、
《FWである俺がMFのミヤにゴール数で負けるわけにはいかない》
という思いは、確固たるものとして胸の内にあった。
しかし、ボールをセットした宮沢が時間を掛けてFKの準備をする姿を見て、こう思わずにはいられなかった。
《……アイツ、落ち着いてやがる。決めそうだな……》
そう思ってからの、盛田にはやけに長く感じられた数秒後、予感は現実のものとなる。
宮沢が左足で捉えたボールは壁の上を越えると、ゴール右上に吸い込まれた。
「パサッ」というネットを揺らす音が、数10メートル以上も離れた盛田のところにまで聞こえてきそうな一撃だった。
「うわっ……やりやがったアイツ」
盛田は、思わずそんなつぶやきを漏らしていた。
チームは先制を許し、FWの自分はMFである宮沢に得点数で水をあけられる形となった。
にもかかわらず、チームメイトの祝福の輪の真ん中で拳を握る『相方』の姿を見ると、頬が緩んでしまうのを盛田は止めることができなかった。
大宮対新潟の一戦は、宮沢のFKによる先制点を守りきり、アウェイの新潟が1-0で勝利。会場となった埼玉スタジアムのミックスゾーンで、この日の殊勲者は大勢の記者に囲まれる。
「入ったときは、『あっ、入っちゃった』という感覚が少しありました」
GKの位置を見て、ゴール右上に狙いを定めた後、アプローチに入ってからのことはほとんど覚えていない。
助走に入って以降は、身体が勝手に一連の動きをしてくれた、という感覚だったのだ。
ボールを捉えたときの感触も、左足にはもう残っていない。
「ただ、蹴ったボールの軌道を見た瞬間、『いけそうだ』ということは思いました」
真剣な表情で言葉を重ねる。
「でも、今日は自分が点を取ったことよりも、チームが勝ったことが、本当にうれしかったです」
ことさらに、優等生的な姿勢を示そうとしたわけではない。
純粋に、それが素直な思いだったのだ。
4ヶ月前の同じカード、FKから移籍後初ゴールを挙げながらもあの日は敗れている。そのときとは、喜びの度合いがまるで違っていたからだ。
アルビレックスの『地元紙』新潟日報の記者がこう問いかける。
「やっぱり宮沢さんの地元である埼玉での試合ということで、いつもよりも気合いが入っていたという面もありましたか?」
その質問には悪意の欠片もない。
この日に投げかけられる問いとして、至極当たり前のものだ。
しかし、宮沢は自分でもわかるほどに表情をこわばらせた。
一瞬の間を置いてから
「いや――」
と否定する。
《埼玉は故郷ではあるけれど、もう『地元』じゃないんだ》
そんな思いで、こうつづけた。
「――僕の地元は新潟なんで。新潟に住んでるんで、新潟がホームという感じです」
毅然と、自然と、そう答えていた。
盛夏はつづき、試合もつづく。
宮沢はコンスタントに試合に絡んでいった。
ホームはもちろんアウェイでも、オレンジ色のレプリカユニフォームに身を包んだ大勢のサポーターが駆けつけ、チームを応援してくれた。
初めての個人応援歌も、自分が出た試合では必ず唄ってくれた。
次第に、胸中に、ある変化が生じていく――。
大袈裟に言えば、「宮沢克行」というプロサッカー選手の在り方を決定づける変化だ。
浦和時代は、こう考えていた。
《サッカー選手として自分が良いプレーをしたい。評価されるようなプレーをしたい。それはチームの勝利に繋がるはずのものだし、ひいてはサポーターのためにもなるはず》
極論すれば、浦和時代に夢想していたのは、あくまで『大声援を受けて活躍する自分』。つまり、優先順位の最上段に来るのはあくまでも『自分』だったのだ。
しかし、新潟で実際にサポーターの声援を受けてプレーするうちに、その順番が逆転する。
優先順位のトップが、『自分』から『サポーター』へと変わっていった。
《まずは、あのサポーターたちを喜ばせたい》
《そのための最良の手段は、チームが勝つことだ》
《だったら、自分はそのためのプレーをしよう》
《それがひいては、自分の評価にもつながるんだから》
プロサッカー選手の定義とは何か――。
第一義的には、サッカーをすることでお金をもらう、ということだろう。
だが、それがすべてではない。
プレーに妥協しないことも、チームメイトとの衝突を怖れずに主張することも、プロとして求められる要素だ。
そして、サポーターのために戦うことも――。
2002年夏、サッカーで生活を営むようになって3年半。
ようやく、宮沢克行は様々な意味において『プロサッカー選手』になりはじめていた。
(第3章 『Stay Gold』 了、第4章へつづく)
※トップ画像撮影:甲斐啓二郎