『代表以外』あるJリーガーの14年 #9 第3章 Stay Gold :その2
宮沢が移籍後初先発・初ゴールを果たしたものの、1-4で敗れたアウェイでの大宮アルディージャ戦。
あれから4日、チームは新潟市陸上競技場に川崎フロンターレを迎える。この第9節、先制を許しはしたものの前半のうちに同点とし、後半には逆転に成功。第2節以来となる勝ち点3を新潟は獲得。
しかも、ホームでの勝利はシーズン初だった。
これで勢いづいたチームは、次節ヴァンフォーレ甲府戦ではアウェイながら3-1と圧倒して連勝する。
この2試合、大宮戦から数えれば3試合、宮沢は先発をつづけていた。
チームの連勝は、本当にうれしかった。
だがその一方で、自分がどれほど貢献できていたのかとの疑問を抱いてもいた。
そんな心境で迎えたのが甲府戦から4日後、4月24日の第11節。
この試合は、ひとつの節目となる試合だった――各チームが4回ずつ戦うJ2では、全44試合を4つに分け、それぞれ「第1~4クール」と称していた。その、第1クールのラストゲームにあたるのがこの第11節。
対戦相手はセレッソ大阪。
この年のセレッソはJ2ながら、森島寛晃、西沢明訓らフィリップ・トルシエの指揮する日本代表のメンバーや、後にA代表に名を連ねることとなる大久保嘉人を擁する優勝候補の最右翼だった。
前節を終えての順位は、新潟の6位に対しセレッソは2位。
新潟がリーグ終盤までJ1昇格への可能性を残しておくためには、ホームでのこの直接対決で何としても勝ち点3を挙げておきたいところだった。
4月も下旬というのに、新潟の夜には依然として寒さが居座っていた。
開始直前の天候は曇り。
公式記録に記されることとなる気温は「19.3度」だったが、アルビレックスの先発選手11人中7名が長袖のユニフォームを着てプレー。
4戦連続で先発出場を果たすことになった宮沢も長袖組のひとりで、さらには手袋までしてピッチに立っていた。
19時4分にキックオフされた試合、0-0で迎えた前半26分――。
新潟のエース、マルクスがペナルティエリア左へと侵入。マーカーを振り切るために深く切り返してから、一拍置いて右足でシュートを放つ。
しかし、ボールはゴールの枠から大きく外れた。
直後、ピッチに怒声が響く。
「マルクスッ!どフリーじゃねえかよ!バカ野郎!!!」
声の主は宮沢だった。
マルクスから数メートル離れたペナルティアーク付近に、宮沢は居た。
その場で大きなジェスチャを交え、味方のストライカーに怒鳴りちらす。
シュートを外したことを非難したわけではない。
マルクスがエリア左にドリブルで侵入して切り返した際、彼の視界にはフリーでいた自分の姿が入っていたはずだ。
しかし、マルクスは自身の右足でゴールを狙った。すぐ近くに『どフリー』でいた自分にパスを出さずに。
その選択を、自分にボールを託さなかったことを、責めたのだ。
この場面こそ、新潟に来てからの宮沢が、自身の殻を破るためにはじめた闘いの発露だった――。
チームメイトに罵声を浴びせるなど、浦和時代には到底考えられないことなのだ。
福田正博から注意されたこともある。
「ミヤ、お前なあ、優しすぎるんだよ。もっと要求しろ」
福田は宮沢のことを『いいヤツ』と評していた。
「人間としてキチンとしてるし気遣いもできる。一緒にいて気分を害するような人はいない」、と。
だが、この世界では、『いいヤツ』でいることが、時として仇(あだ)となる。サッカー選手として成功しようとする上では、足枷(かせ)にもなりうる。それは、福田が自身の選手生活から得た経験則だった。
福田が言ってくれている主旨は、頭では、理解できた。
「優しすぎる」と思われる要素が自分の性格の内にたしかにあることも、宮沢は自覚していた――たとえば、相手の足下へとパスを送る。だが、受け手は前方のスペースでボールを貰おうと走ったため、繋がらずに終わったとする。
どちらが悪いというわけではない。
しかしそんな状況でも、先に「ごめん」と言ってしまうのが宮沢だった。
元来、性格的に優しいタイプではあったが、どちらのミスとも言えないプレーに謝罪するのは、優しさを通り越して卑屈になっていたと言ってもよかったかもしれない。
大学時代には、そんなことはなかったのだ。
レッズに入ってからは、飛躍的に増えた。
遠慮があったのかもしれない。
自信がなかったから、なのかもしれない。
プレー面で《オレはこうやりたいのに……》と思うところがあっても、言い出せないままということが幾度もあった。
いずれにせよそれは、プロ選手としては弱さ以外の何ものでもない。
嫌われてもいいから主張すべきことは言おうと思いつつも、結局、何も言えないままに浦和での日々は終わりを迎えていた。
《いろんな面で変わらなくちゃ、変わるんだ! そうしないと、レッズのときの繰り返しで同じ結果になる》
福田に言われた「優しすぎる自分」を捨て去ること。
それは、プロとして生きていくために、宮沢が自身に課した重要なテーマのひとつ。新潟に来ることが決まって以来、心に念じつづけていたことだ。
《お人好しじゃ駄目だ。試合に出られるんだったら、チームメイトに嫌われてもいい》
いたずらに険悪な雰囲気を作ろうと考えていたわけではない。
仲が良いにこしたことはない、と思っている。
しかしその結果、するべき主張をしづらくなるようなら、友だちになる必要はない。
特にピッチの上では――。
新潟の一員となって以来、自身にそう言い聞かせてきた。
「マルクスッ!どフリーじゃねえかよ!バカ野郎!!!」
ブラジル人のマルクスにその日本語がどれほど通じたかは疑問だった。
だが、口調と身振りが伴うことで不満は伝わり、そのときの状況を加味すれば「フリーなんだからオレに出せ」という最低限の意味は通じるはずだった。
『味方への叫び』
それこそが、プロサッカー界で生き延びていくために宮沢がはじめた闘いだった。
ただし、味方に主張を通すためには、相手側にそれだけの『納得』を与える必要がある。
つまりは、自分自身もそれなりの結果を出すことが――。
宮沢がマルクスを怒鳴りつけた7分後の前半33分、チームはPKで先制。PKを与えたセレッソの選手は退場となり、新潟は主導権を握る。
40分には、2列目から飛び出した宮沢がエリア内へ侵入、味方からのスルーパスを受ける。
しかし、左足でのシュートはGK正面。
宮沢が決定機を生かせずに突き放せなかったチームは、それでも後半9分に追加点を挙げて2-0としてくれた。
数的優位の彼らが、そのまま一方的な内容で押し切る可能性は高かった。
しかし、試合は逆の展開へ――。
2-0とした直後、セットプレーからセレッソ・大久保に頭で押し込まれ1点差に。さらに後半20分にはPKを与え、2-2とされてしまう。
どちらが3点目を先に入れるか――。
先にセレッソにゴールを許してしまえば、新潟がひとり多いとはいえ、守備を固められ逃げ切られる可能性は十分にあった。
後半29分に得た、右からのCK。
コーナースポットに向かった宮沢がボールをセットし、左足でゴール前へと送る。
ボールは、クイッと曲がりながらゴール方向へと近づいた。
そのボールに対し、オレンジ色のユニフォームを着た選手がひと際高く跳び上がる。
頭で捉えて方向を変える。
ボールは、ゴール左下に吸い込まれた――。
これで新潟 3、セレッソ 2。
コーナースポットから絶妙なボールを配給した宮沢は、両手の拳を握り、新潟市営陸上競技場の曇り空に向かって絶叫した。
その喜びを噛みしめるように何度も頭上を振り仰ぎながら、自陣へと戻る。
間もなく、味方の選手が宮沢を指差しながら「ミヤッ!ナイスボールッ!」と叫んで駆けつけた。
このCKから3-2とした5分後の32分、宮沢は交代でピッチを退く。
攻撃的なMFである宮沢を、より守備的なMFである秋葉忠宏へと代える。リードしている終盤の『定石』とも言える交代。直近の2試合でも監督の反町は同じカードの切り方を見せていた。
タッチラインのすぐ外で待つ秋葉と手を叩き合わせ、ピッチの方を向き直り、ぺこりと頭を下げた。
ベンチ前で反町の出迎えに握手で応え、他のスタッフやサブメンバーのねぎらいにも同様に応える。
やがて膝下まである防寒用の青いグラウンドコートを羽織り、ベンチに腰を下ろした。
ひと息ついてからスパイクを脱ぎ立ち上がると、ベンチ脇にあるウォーミングアップスペースへと向かう。
ピッチに視線をやったまま、ゆっくりとジョギングをはじめた。
ソックス越しに伝わる陸上トラックの冷たさを心地よく感じながら、意識だけはピッチへと向けていた。
試合は、宮沢が交代したときのスコアのまま、3-2の新潟リードで推移している。
交代から10分、後半45分を回って数十秒が経ったとき、勝利を決定づける4点目が入る。
ベンチ前で、監督・選手・スタッフが入り乱れ、誰彼かまわず体をぶつけ合うように抱き合う。宮沢も、アップスペースから走ってその渦の中へと身を踊らせた。
その後、新潟はさらに1点を追加。ふたたび新潟ベンチ前はお祭り騒ぎとなる。
仲間たちと肩や背中、体のあちこちを叩き合った――体の奥底からゾクゾクするような喜びが身震いと共にわき上がり、《サッカーって、なんて面白いんだ》と思いながら、5-2の快勝に酔いしれた。
GKとの1対1という追加点の絶好機を自身は外していたものの、試合の趨勢を左右する3点目のアシストができた満足感もあった。
そして何よりも――。
他人に要求する以上、自分も相応のパフォーマンスを示さなければというプレッシャーが、心地よかった。
それは、浦和時代には欠けていた感覚だった。
レッズというクラブには、何の責任があるわけでもない。
違いを生み出していたのは、ひとえに宮沢克行本人の意識の差異に他ならなかった。
(第3章 その3へつづく)
※トップ画像 撮影:甲斐啓二郎