『代表以外』あるJリーガーの14年 #6 第2章 雪降る街へ :その2
浦和から新潟への引っ越し、荷物は多くはなかった。
明治大学在学中はサッカー部の寮で暮らし、卒業後はレッズの練習場近くにある選手寮へと入った。プロ3年目からはひとり暮しをはじめたが、インテリアにこだわりを持っているわけでもなかった。
最も大きな荷物はソファベッド。レッズの選手寮で暮らしていたときに買ったものだった―― 寮生活時代、練習の前後には『ミスター・レッズ』福田正博がよく宮沢の部屋に遊びに来ていた。
もっとも、福田との最初の出会いで受けた印象は必ずしも感じのよいものではない。
福田とはじめて会ったのは大学在学中、練習生としてレッズのトレーニングに参加したときだ。
当時、ケガを抱えていた福田はチームの練習時間とは異なるスケジュールでリハビリを行なっていた。リハビリを終えた後なのか、これから行なうのかは宮沢にはわからなかったが、そのとき福田はクラブハウスで食事を取っていた。出前のラーメンをすする福田と出くわし、宮沢は緊張しながらも《挨拶しなきゃ》と、思い切って声を掛けた。
簡単な自己紹介をした後、会話のきっかけを何とか掴もうとして、こう口にした。
「あの・・・・・・、ケガ、大丈夫ですか?」
福田の口から出てきたのは「ああ」というひどく素っ気ない返事。
そしてその目は《何なんだ、お前?》と雄弁に語っている。
その眼差しに怖じ気づき、宮沢はそれ以上言葉をつぐことができず、スゴスゴと引き下がっていた。
『怖い人』、それが福田への第一印象だった。
福田に人見知りの気があることを知るのは、宮沢がレッズに入ってしばらくしてからだ。福田は、『仲良くなるまでに多少の時間がかかるものの、いったん距離が縮まってしまえば』というタイプだった。
福田が宮沢に気を許すようになって以降は、午前と午後の2回練習がある日など、昼食後に福田が宮沢の部屋に来て昼寝をしてから午後の練習に出向くことも少なくなかった。
「ミヤ、俺も金出すから、ソファベッド買えよ。ソファベッドなら、俺がいないときはお前がソファとして使えるし」
福田のそんなひと言から、金を出し合って近郊の家具チェーン店でソファベッドを買った。ひとり暮らしをはじめてからも、使いつづけた。
そのソファベッドはいわば福田との、そして浦和レッズでの思い出の品であり、捨てていくには忍びないものだった。
もうひとつ、捨てられなかったものがある。
寮生活時代のある日、あまりの部屋の殺風景さから衝動的に買い求めたラベンダー・デンタータの鉢植え。花や植物は好きな質(たち)だったし、ラベンダーは癒し効果もあるはずと考えて買ったものだった。
ソファベッドは他の大荷物とともに業者に依頼し、ラベンダー・デンタータははじめて自分の金で買った車の後ろに積んだ。
車は、シルバーの日産製ステーションワゴン。
購入する際には、自動車関連の家業を継いでいた中学時代のサッカー部の友人を頼った。諸々の手続き費用や保険料も込みで100万円の予算と希望車種を告げ、「これでどうにか」と拝み倒して調達してもらっていた。
予算の100万円は、プロになるときにレッズから渡された支度金や3年間の給料を貯めたものの内から捻出。もう少し出せないこともなかったが、保証のない将来のことを思えば、車だけに多くの金をつぎ込む気には到底なれなかった。
諸費用込みで100万円の予算で用意されたワゴンは、いかにも商業車然としたものだった。
後に、Jリーガーの愛車らしからぬそのフォルムを指し、新潟のチームメイトたちから「その作業車でどこに行って工事やるんだ?」と軽口を叩かれることになる。
だが、宮沢は友人が用意してくれた車を気に入った。
カー用品店で買い求めた「雪道でも安心」という触れ込みの新しいタイヤを付け、念のためチェーンも積んで新潟まで向かった。
埼玉で育った宮沢にとって、冬の新潟へ行くというのは雪山登山でもするかのような一大事だった。
実際のところ、1月中旬の移動にはスタッドレスタイヤで事足りたのだが、それでも、雪の降る高速道路は宮沢を怯えさせるには十分だった。
雪だけでなく霧にも見舞われ、視界の悪いなかを低速でひとり走る。
途中で見えたサービスエリアの標識にたまらずハンドルを切り、駐車場へ逃げ込んだ。
未知の体験にひとりで怯え、これから未知の場所へとひとりで向かう。
年甲斐もなく、怖さと寂しさが沸き上がってくるのを止められない。
寂しさをまぎらわすために、カーステレオのボリュームを上げる。
だが、車内に響くエンヤの美しく澄んだ歌声は、寂しさをまぎらわす効果はさほどなかった。
そして、そんな気分におかまいなく、ボタ雪は次々とフロントガラスにぶつかっては、視界を覆っていった。
アルビレックス新潟が始動したのは2002年1月22日。
トレーニングは新潟駅南中央口至近にある屋根付きのフットサル場で行なわれた。
その後、チームは沖縄、宮崎、静岡、福島と場所を変えながら3週間あまりのハードでタフなキャンプを経て、3月3日、アウェイでの水戸ホーリーホック戦でJ2開幕を迎えた。
前年の2001シーズン4位という成績だったチームの目標はJ1昇格。
そのためには、2位以内に入らねばならない。
スタートは上々だった。
第1・2節ともアウェイで連勝し、第3節でホーム開幕戦を迎える。
会場はビッグスワン。
3ヶ月後にワールドカップが行なわれるスタジアムには、3万5000人を越える観衆が詰めかけた。
このホーム開幕戦を、宮沢はスタンドから見守った。
第1節では後半途中から出場、2節はベンチ入りこそしたものの出番はないまま、新潟へと戻ってきていた。
体調は最悪に近かった。
前年11月末の契約満了にはじまり、新潟への加入が決るまでの心労。
その疲れを取るはずのオフは、レッズが天皇杯を勝ち進んだことで12月30日になるまで迎えられず短いものとなった。短い期間の内に車を買い、引っ越しを行ない、付随する諸々の手続きをこなさねばならなかった。
プロになってから経験した過去2回のオフよりも短い時間を、まるで異なる過ごし方をした。その結果、心身共に疲労は抜けきってはいなかった。
同時に、新しい土地・新しいチームに来たことで気が張ってもいた。
むしろ、《レッズのとき以上にやらないと》との危機感を抱き、より自分を追い込んでいくこととなる。
もともと、宮沢は練習が嫌いではなかった――。
「名前を『克行』にしたのには、意味があるよ。自分に『克って行く』という意味で、名付けたんだ」
中学生になってから、父にそう言われたことがある。
「克己心」や「克服」という言葉からも読み取れるように、「克」という字には「勝つ」という意味が含まれている。
後に――宮沢自身はほとんど酒を飲まないが、一緒に酒を飲めるような年齢になってから――、父親に冗談でこう言ったことがある。
「もっとラクな名前にしてくれればよかったのに」、と。
だが、宮沢は自分の名前が大好きだったし、この名前を付けてくれたことを父に感謝していた。
父・恵雄(よしお)は東京都杉並区で生まれ、板橋区で育った。
早稲田大学を卒業後、世界トップクラスの印刷インキメーカーである大日本インキ化学工業(株)の傘下にある工場で金型造りに従事していた。実直な人間で、厳しさと優しさを兼ね備えていた。幼いころ一緒に虫採りや釣りに行ったこと、父の務める工場に連れて行ってもらったこともあるのを克行はよく覚えている。
恵雄と中学の同級生だった妻の和美(かずみ)、3歳の長女・昌代(まさよ)の3人家族に克行が加わったのは1976年9月15日。
当時、一家は千葉県船橋市で暮らしていた。
その後、恵雄の転勤で埼玉県春日部市に移り住む。さらに、克行が小学1年生の11月には隣接する埼玉県北葛飾郡庄和町(現・春日部市)にマイホームを購入して居を移した。
庄和町に引っ越してくる前は野球の方がなじみ深いスポーツで、父とはよくキャッチボールをしていた。
父は中学・高校とバレーボール部、大学ではサッカー同好会に所属し、野球経験はなかった。それでも、キャッチボールの相手以外にも器用にバットを操ってノックもしてくれた。
そんな父のおかげで、克行は2年生になったら地区の野球チームに入るつもりでいた。
だが、引っ越した先の小学校には、野球チームがなかった。
こども心に《何かスポーツをしたいな》と思っていた。
転機が訪れるのは庄和町に来て数カ月後、2年生に進級する直前だった。
学校で配られた、たった1枚のわら半紙が、その後の人生を決めることになる――。
『庄和ストームサッカークラブ 部員募集中!』
余白には、当時こどもたちの間で一大ブームを巻き起こしていたマンガ『キャプテン翼』のキャラクターイラストが添えられていた。
わら半紙を手に、まずは母に「これ、入っていいかなあ」と聞いてみた。
すると、母は一も二もなく賛成してくれた。その後、帰宅した父も快諾してくれた。
それ以前にサッカーをしたことがあるのか、はっきりとした記憶はない。当然、どれほどサッカーが好きだったのかも疑問だった。
だが、ストームサッカークラブは楽しかった。
クラブには姉の同級生もおり、「宮沢の弟か。よろしくな」とかわいがってもくれた。
当時は、世間一般の兄弟姉妹同様に姉のことをうとましく思うことも稀にあった。だが後に振り返れば、姉の存在のおかげでクラブにすんなりと馴染むことができたのだな、と感謝することになる。
春日部から引っ越すことがなければ、野球をしていたはずだった。
しかし、たった1枚のわら半紙という偶然からサッカーと出会い、まもなくのめり込んだ。
図画工作の時間で木彫をした際には、サッカーボールとスパイクの絵を彫るほど入れ込んでいた。
そして小学校の卒業文集には、将来の夢として『サッカー選手』と記すことになる。
もし野球を続けていたならば、どうなっていたか――。
何度か考えたことがある。
ボールを蹴るのは左足だが、箸を持つのも字を書くのも右手。野球でも右投げ右打ちだった。
《自分は利き足が左だからこそ、サッカー界で長らえている部分がある》
そんな自覚がある宮沢は、野球の道に進めば凡庸な選手で終わっていただろうと考えていた。
自分に与えられた左足を『両親からのプレゼント』だと感謝していた。
好きなことをやらせてくれた両親だったが、しかし、テレビゲームだけは「目が悪くなる」との理由で買ってくれなかった。父も母もそして姉も、視力が良いとはいえず眼鏡を使っていたからだ。
とはいえ実は、親の目を盗んで友だちの家でゲームに興じた日も少なくなかった。その秘密は、ストームサッカークラブの保護者同士の交友関係から母・和美に知られることとなる。
「あら、おたくの克行君、ウチに遊びに来たとき、ウチの子と一緒にゲームしてたわよ」、と。
その事実を知った母は、しかしながら、《息子の友だちづきあいの範囲内のことだしね》と黙認してくれた。
テレビゲームを除けば自由を与えてくれた父から、言われ続けていたことがある。
「人と同じようにやっていては駄目だ」
サッカーが好きだった克行少年は、放っておいてもボールを蹴る時間が長かった。つまりは、自然と父の言葉をなぞるような行動をとっていた。
その父の言葉を意識して実践するようになるのは、大学入学後。本格的にプロを目指すようになってからだ。
宮沢が入った寮はサッカー部のグラウンドのすぐ隣にあった。イコール、朝でも夜でも好きなときに練習ができる環境があったということだ。
父の言葉を常に心の片隅に置きながら、時間を問わずトレーニングに励む。
その結果、大学1年時の終盤には試合出場の機会が増えはじめる。2年生でレギュラーの座を獲得。3年に進級する直前には、関東大学選抜の一員にという形で結実していく――。
『練習』は、明確な形で成果となっていた。
そのことが、『練習』という行為への信頼度をさらに増す。
その『練習』は、やがてプロへの扉を押し開けてくれた。
だからこそ、レッズに入ってからも全体練習前後に自主トレを欠かすことはなかった。むしろ、大学時代にあった『学業』という足かせを取り払われたぶんだけ、サッカーにより注力するようになっていた――宮沢が明治大学サッカー部の一員となった1995年当時、同じ歳の中田英寿、福西崇史、財前宣之らはプロ選手となっている。彼らに対し、大学生の宮沢はこんな思いを抱いていたのだ。
《サッカーだけしてればいいなんて、良いなぁ。すっごい羨ましい》
彼らから4年遅れでプロとなった宮沢は、かつて抱いた羨望をレッズの練習場で思うさま解き放った。
ペナルティエリアの左脇で、フェイントを織り交ぜたドリブルで想像上のDFをかわし、ゴール前のチームメイトへ何本もクロスを送った。
クロスを受けてくれる練習相手がいないときには、FKやドリブル、筋力トレーニングなど、ひとりでもできることをやった。練習場の隅に建つサッカーゴールが描かれたコンクリートの壁を相手に、ボールを蹴りつづけた日も少なくない。
何かしらをやってから、宮沢はクラブハウスへと引き上げていた。
サテライトチームに身を置きながら、トレーニング終了後にすぐ上がるのは間違いのような気がして嫌だったのだ。
家路に就く頃には、駐車場に残された車は自分のものだけ。
そんな日々を過ごしていた。
そのことに、何の疑問も抱いていなかった――。
(第2章 その3へつづく)