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『代表以外』あるJリーガーの14年 #7   第2章 雪降る街へ:その3


 レッズ在籍当時と変わらず、新潟に来てからも宮沢は『練習の虫』だった。
 いや、むしろ浦和時代よりも練習の量を増やしたいとすら思っていた。

 特にFKについては――。

 レッズでは、練習後にベテランの広瀬治と共にFKを蹴った日もある。FKのコツを彼から教えてもらいもした。
 広瀬はチーム最良のプレースキッカーだった。
 ただしその評価は、【ある選手がレッズの一員となるまで】との注釈を加えるべきかもしれない。

 小野伸二――。

 日本サッカー界の期待を一身に集めた『天才』がレッズの一員となったのは、宮沢がプロになる1年前の1998年。
 自身も浦和の選手となり、彼は伸二に出会う。
 そのキックの柔らかさ、ボールタッチの優しさには、ただただ驚嘆するばかりだった。

《伸二にはかなわない》

 決して、そんなふうに諦めたわけではなかった。
 だが、FKで彼を超えてやろうという野心を持つだけの『我』の強さも、宮沢は持っていなかった。
 当時の宮沢には《FKを自分の武器にしてやる》という強い意志、その武器でレギュラーを勝ち取るという貪欲さは欠けていたのだ。
 しかし、浦和を契約満了となったことを機に状況は変化する。

《プロとして生き残っていくために、可能性のあることは何にでも取り組まなくちゃならない――》

 レッズに居たときには持ちえなかった貪欲さで、宮沢は新潟での居残り練習へのモチベーションを高めていく。
 だが、大きな障害がひとつ――。
 2002年当時、新潟には専用の練習場がなかったことだ。
 チームは公営のグラウンドを借りて回る状態。
 一定の時間単位で地域のグラウンドを有料で借りていた。そのため、いつまでもひとり残ってボールを蹴るわけにもいかない。
 それでもチームスタッフに懇願し、使用時間の許すギリギリまで居残り練習をさせてもらっていた。だが、納得いくだけの練習を積めたとは言えなかった。

《このままで、やっていけるのか。もっと練習したい。練習しなきゃ》

 そんな焦燥感が募っていく。
 実のところ、監督の反町がプレースキッカーとして宮沢に抱く期待は小さくなかった。宮沢がセレクションでFKから直接ゴールを決めた場面もしっかりと見ていたからだ。
 だが、その期待を言葉で直接伝えるようなことはしておらず、宮沢本人は指揮官の思いを感じ取るどころか、むしろ焦りを増すばかりだった。
 そんな宮沢が、監督の構想に自分が含まれていることを悟るのは開幕直前――トレーニング内でのチーム分けや練習試合でのメンバー構成などを振り返り、自分が先発組に入っていたことに気づいたのだ。
 もっと早くに察してもよさそうなものだったが、逆に言えば、それだけ余裕のない精神状態にあった、ということになる。

 そして、スタメン候補だと気づいた頃には、それまでの日々で追い込みすぎていたコンディションはボロボロになっていた――。

 チームは開幕前の最終調整として、福島のJヴィレッジへ移動。開幕3日前、総仕上げとしてモンテディオ山形との練習試合も行なわれた。
 宮沢は先発。
 だが、ボールが足に付かず、1対1ではことごとく負けた。
 ボールを奪い返そうと体をピッチに投げ出し足を伸ばしても、スライディングは届きもしない。
 対戦相手の山形には、レッズ時代のチームメイトであり新潟のセレクションにも共に参加した小島徹がいた。自分のプレーを知る小島から、こう心配される始末だった。

「ミヤ、どうした?大丈夫か?」、と。


 正規の45分を2本ではなく、35分を3本という変則的な試合。
 最初の35分が終わってロッカールームに戻ると、先発した11名に対し、監督の反町から怒気をはらんだ大声が向けられた。

「お前らっ、これで開幕スタメンが取れたと思ってたら、大間違いだからなっ!」

《ああ、俺のことだ……》

 反町の言葉が自分だけに向けられたものでないことは、頭では理解できた。
 だが、自分ひとりが糾弾されているように感じられるほど、パフォーマンスはひどいものだった。そんな歯がゆさがあった。
 ほとんどの選手が入れ替えられて、2本目はスタート。
 宮沢もピッチから退いていた。
 よくよく考えれば、開幕3日前ということもあり、疲労を溜めないためにも当初からメンバーは入れ替える予定だったのかもしれない。
 しかし、そんな解釈はなんの慰めにもならなかった。

 迎えた水戸ホーリーホックとの2002シーズン開幕戦。
 宮沢はベンチスタート、途中交代で12分間の出場のみに留まる。
 つづく第2節横浜FC戦はベンチ入りしたものの、出番は与えられないままだった。

 第3節。ホームでの開幕戦となる大分トリニータ戦の前日3月16日、チームは試合会場となるビッグスワンでトレーニングを行なった。
 宮沢はレギュラー組と思しきチームでプレーしたが、ここでも精彩を欠いた動きに終始。
 体は思うように動かずすぐに息があがり、足が張った。
 結局、翌日はベンチに入ることすらなく、3万5000人を越える観衆と共にスタンドから試合を見守ることとなった。

《監督の期待を、とことん裏切っているな》

 自己嫌悪にも似た感情を抱きはじめていた。
 J1昇格争いのライバルである大分とのこの一戦、アルビレックスは0-1で敗れる。
 以降、第4節は2-2、第5節は1-1と引き分けが続く。
 どちらの試合にも、宮沢は帯同していない。

 体調を崩し、微熱を発する風邪に長いこと悩まされていたのだ。

 レッズで契約満了を言い渡されてからの張り詰めた日々は、本人が思っていた以上に多大な精神的疲労を溜めこむ結果となっていた。
 オフらしいオフがなく、前年の肉体的疲労も抜けきらないまま、アルビレックスでのトレーニングがはじまったのも事実だった。
 新潟の気候にいまだ慣れていないことも、一因だ。
 3月の新潟には冷たい雨が降ることが多かった。雨が雪に変わることもまれではない。練習開始時には晴れていた空からいつしか雪が落ちはじめ、終わる頃には10㎝ほど積もっているということもあった。
 風邪が治りかけたと思うと、冷たい雨の降るなかでのトレーニングでまた体調を崩した。

 それでも、チームの練習を宮沢は休まなかった。
 体調不良を監督やコーチに悟られないようにしながら、トレーニングに参加しつづけた。
 マッサージなど、体のケアをしてくれるトレーナーにだけは体調の悪さを伝えていたが、監督・コーチ陣には内緒にしてくれるよう拝み倒した。
 体調を崩すということは、自己管理ができていないということ。
 すなわち選手として失格だと宮沢は考えていたからであり、それを監督たちに知られるのが怖かったからだ。

 新天地で、宮沢は早くも藻掻き苦しんでいた。
 しかし、その藻掻きからあることに気づき、大きな転機を迎えることとなる。
 それこそ、その後のサッカー人生を大きく左右するような転機を――。

 通常ならば、体調不良をおして練習に参加しても良いパフォーマンスは示せない。監督からの評価が下がるデメリットはあっても、メリットはほとんどないはずだ。
 だが、宮沢の場合は違っていた。
 体力的には「ヘロヘロ」と表現していい状態でプレーしているにもかかわらず、それなりの仕事をこなすことができていたのだ。

 その出来に、自分自身が驚いていた。

 同時に、疑問が湧く。

《こんなに体調が悪いのに、何でできてるんだろう》

 答はすぐに思いあたった。
 《無理が利かないのだから、やれることだけをやろう》と意識した結果、肩の力を抜いたプレーができていた。
 自分でなんとかしようとする余分なボールタッチは取り除かれ、代わりに味方を使うシンプルなプレーに行きつく。
 それが、チーム全体にも良いリズムをもたらしていたのだ。

 当然ながら、この体調不良の時期ばかりは居残りでの練習は行なっていない。それだけの余力もなかったからだ。
 チームでのトレーニングはこなしつつ居残り練習は行なわない日々――。
 その時間を通じ、少しずつコンディションを回復していく。
 そして、その後に行なわれた紅白戦やサテライトリーグの試合で、宮沢は今までよりも体が動くことに気づかされる。
 この『今まで』とは、新潟に来て以降の期間に限ったことではない。
 レッズ時代とくらべても、明らかにキレがあるのだ。

 自身の予想外の変調に出くわし、再び考えこむ。
 
 実は、宮沢にはコンプレックスがあった。
 体が弱いということだ。
 それは、「病気になりがち」という一般的な意味での体の弱さであり、同時に、サッカー選手としてのフィジカルコンタクトの弱さという、両方の意味でだ。

 レッズ時代から、風邪をひくことが多かった。
 アイスクリームを食べただけで、しばらく後には体が冷え、少しの寝不足で翌日には鼻をすするといった具合だった。
 プロのアスリートの体格としても、強靱な肉体とは言い難かった。

 174㎝、66㎏。

 クラブやJリーグに登録されている、新潟での1年目の宮沢の身体データだ。
 ちなみに、174㎝の人間の標準体重――肥満にも痩身にも分類されず、最も健康的な生活ができると統計的に認定された理想体重――は67㎏だ。

 当たり負けしないような体を作ろうと、筋力トレーニングに取り組んだこともある。
 レッズでの3年目、2001年のことだ。
 このとき、一緒に筋トレをはじめたのが5つ年下の鈴木啓太だった。
 身体を苛めるような負荷をかけ、終了後にはプロテインを欠かさず摂るという日々を二人は過ごした。
 3ヶ月も過ぎるころには、鈴木の身体は明らかに厚みを増していた。
 一方、自分には目に見えるような変化はない。
 その年のセカンドステージ、鈴木はレギュラーの座を手に入れる。
 宮沢は渇望していた強靱さを手に入れられないままだった。

 体が弱いというコンプレックスがあるからこそ、技術で補おうと、居残り練習に励んでいる面も多分にあった。
 そして新潟に来てからは、浦和での日々以上に自身を追い込んだ。

《100パーセントじゃなく、120パーセント出さなきゃ》

 そう考え、トレーニングに臨んできた。
 だが実際のところ、宮沢のその努力は、自身の体の弱さを助長しているだけだった。
 体調悪化を契機に居残り練習を中止した間、自分の動きにキレがあることに気づいた宮沢は、自身のサッカーへの取り組みを見直しはじめる。

《よく考えたら無理してたんだな。『やる、やる、やる』ばかりで、やるときと、やらないときがハッキリしてなかった。どの時期、どの試合に照準を合わせるかとか、そういう考え方もまるでしてなかったな》

 浦和時代には、『ミスター・レッズ』福田正博にこう諭されたこともある。

「あのなミヤ、練習すりゃあいいってもんじゃないんだよ」、と。

 そのときの宮沢は、口では「はい」と返しはしたものの、内心では素直に頷けないでいた。

《そりゃあ、試合に絡んでるさフクさんの立場だったら、そうなんだろうけど……》

 福田との年齢差や実績の違い、チームで置かれた立場を考えると、福田と同じことをするのは怠慢だとすら思っていた。
 だが、その頃にひいた風邪のいくつかも、居残り練習をせずにいれば、ひかなかったものかもしれないと、今になってようやく思い至る。

《大学のときから、居残りで練習をやっていたおかげで自分は成長してきたと思ってた。だから、プロになってからも、何の疑問も持たずにつづけてきてたけど・・・・・・》

 でも――と初めて思う。

《今この世界で周りにいる選手たちは、俺が体調が悪い状態でプレーして通用する相手じゃないんだよな、きっと。逆に、いかに良いコンディションでやれるかを考えるべきなのかもしれない》

 これこそが、プロ4年目にして迎えた、宮沢克行最大の転機だった。
 
 レッズでの3年間、宮沢が『基盤』としていたものがいくつかある。

 ひとつは、《うまくなりたい》という純粋な向上心。
 ひとつは、「人と同じようにやっていては駄目だ」という父の教え。
 そして、その父の教えを実践した結果プロになれたのだ、との確信。
 だからこそ、彼は居残りでの練習を欠かさない日々を送っていた。

 しかし、それは『仕事としての取り組み』という観点から考えれば、適正とは言いがたい面もあったのだ。

 この転機を迎えてようやく、『サッカーが大好きな若者』の延長から脱皮を遂げる。大袈裟に言えば、このとき初めて宮沢克行は『職業:プロサッカー選手』、となったのだ。

 コンディションを徐々に回復しながらもメンバー入りすることがなかった第3~5節、チームは3試合を消化して0勝2分け1敗。
 その後の第6節、3月30日のアウェイ山形戦には宮沢も帯同、後半23分から出場を果たす。しかし、結果は1-1の引き分けに終り、開幕戦からの合計は2勝3分け1敗の4位。
 つづく第7節アビスパ福岡との試合では無得点のまま敗れてしまう。

 チームは、攻撃面でのテコ入れが必要な状況となっていた――。

 迎えた2002年4月10日、J2第8節。

 アルビレックス新潟の一員となって初めて、宮沢はスターティングメンバーとしてピッチに足を踏み入れる。

 対戦相手は大宮アルディージャ。

 場所は大宮サッカー場。

 武南高校時代にはインターハイや高校選手権の県予選決勝という重要な試合を戦った場所。
 レッズ時代にはJ2で得点を挙げた経験もある。
 そんな、馴染み深いスタジアムだった。

(第2章 了 第3章へつづく)

※トップ画像撮影:甲斐啓二郎


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