社会人としての強迫観念
なにかしないといけない
なにもしていない私には価値がない
なにもしていない
本当になにもしていないのか…
今までの私にとってその「なにか」とは
お金を稼ぐ「仕事」を意味していた
だから、仕事をしていない状態の私は
「なに」もしていない、ということになる
なにもしていない自分を恥ずかしく思っていたし罪悪感もあった
だから、何かしらやりたい仕事が見つかる、見つけなければいけないとも思っていたし、仕事をしないのは許されない状態だったので、「なにか」しなくては と強迫観念の状態に陥っていた
大人になったら
義務教育を終えたら
成人になったら
いわゆる社会人になったら
仕事をするのが私の中では当たり前
私の周りの社会では当たり前
本当にやりたい仕事なのかわからない状態で
なんとかやりがいを見つけてこなしていく
しかも、この「なにか」は
しんどい
我慢しなくてはいけない
イヤなこともやらなくてはいけない
仕事をしないと(お金を稼がないと)
生きていけない
などなど他にもたくさんのネガティブ要素満載
百歩譲って
なにか目的があって
やりたいことがあって
夢があって
それに向かっているならしょうがない
病気で働けないならしょうがない
もうしょうがないと思っている時点で仕事より下にしている
そんな感じで転職を繰り返し、とうとう身体を極限まで追い込んで強制終了
ネパールの秘境の村に行き、わかってしまった
なにかをしなくては が存在していなかった
生きるために必要なものだけで生活している人達がいることを目の当たりにした
完結していた
もちろん私はゲストとしてその村に短い時間滞在しただけだけど、それはその村の人だからじゃなく、私もそうであってもいいのだ
だから、今の私は、本当になにもしていないのか…の自分の問いにクエスチョンマークがついたのだ
なにもしてないわけじゃないなぁ…
わたし が 存在してる しなぁ…
もうここの「なにか」は仕事じゃなくなってることにも気付いた
生きることの中の「仕事をする」ことが私の中での最重要事項ではなくなってきた
ということかな
「なにか」をしたくないのではない
「仕事」から連想される私の中にある概念を一掃する時期がきた
してもいいし、しなくてもいい
しなくてはいけない
ことじゃない
ということがわかった
強烈に腑に落ちた
社会、社会人としての「なにか」ではなく
自分が、わたしがどう在りたいのか
に軸が換わったんだ