床の下の暗黒
私がロンドンで家を買ったのは、12年ほど前の冬のことだった。
引越しを終え、荷ほどきも終え、ふと、家の中で吐く息が白いことに気がついた。
寒い。
ものすごく、寒い。
イギリスの典型的な住宅の例にもれず、居間や寝室にはラジエーターがあり、ボイラーで暖められたお湯が回遊することで家中を温めるセントラルヒーティングがついている。
しかし、それをかなり長時間つけ続けても、どうにも家が温まらないのだ。
居間にある暖炉をつけ、セーターを着こんで、ようやくなんとか凍えずにすむ、という感じだった。
その年の秋、フランス人の友だちが私の誕生日祝いにとケーキを持ってきてくれた。その上にキャンドルを灯すと、その炎がバタバタと落ち着かないほどに揺れ動いた。
そこでようやく気づいた。
そう、この家は古すぎて、そこらじゅう隙間風だらけだったのだ。
窓は木製のサッシ窓。
窓枠の周辺に手をやればぴゅーぴゅー風を感じる。
床板はそれ自体がひんやりするだけでなく、その間からも空気の動きが感じとれる。
家が建てられたビクトリア時代は今から100年ほど前のこと。とうぜん発泡スチロールやウレタンの断熱材などは存在しないから、どの部屋にもしっかりと絨毯が敷き詰められ、窓には風をブロックするようにぶ厚いカーテンがかけられていたことだろう。
けれど、近年のインテリアの傾向から、私が買った時のその家は、すでにカーペットははがされ、薄いIKEAのカーテンが3mの天井高に追いつかず、宙ぶらりんに下げられていた。
しかも、かつては重いカーテンを支えていただろうカーテンロッドは、モロモロになってきた壁材に頼りなくグラグラ取りついている有様だ。
とりあえず、私はイギリス人やスロバキア人の友達のアドバイスをうけ、カーテンロッドを補強し、ぶ厚いカーテンを買った。
床にはラグを敷き、暖房効率をあげるためラジエーターの空気を抜き、使わない暖炉の煙突を風船でふさいだ。
そんな対応策のすべてがなんだか新鮮だった。
かつて、冬はマイナス30℃になる極寒のアメリカ中西部で貧乏大学院生をしていた私は、暖房代をケチるために、よくアパートの中でお湯を沸かした。
そのお湯がもったいなくて、夜中にお味噌汁を食べたりしたけれど、アメリカでは暖炉の煙突に風船を入れるなんて考えもしなかった。
♢
家を買って数年後、増築をしたタイミングで、建設現場にどうせなるならと、オリジナルの部分にもリフォームの手を入れることにし、その古い床材に断熱材をいれてもらうことにした。
そのとき、外された床の様子を目にしたときの衝撃はいまだに忘れられない。
はがされた床板の厚さは、せいぜい2センチ程度しかなかった。
そして、持ち上げられた床の下に広がるのは、1.5-2mほどの深さの、なにもない空間。
その下に泥やら砂利やら。暗黒の世界が広がっていた。
どうりで夏冬に関わらずいつだってひんやり寒いはずだ。陽の射すこともないただの土のうえに渡された数センチの板の上で暮らしていたのだから。
現代的な断熱材が入り、床板の間も埋めなおしてもらい、その上にラグも敷き、増築にあわせて家中のラジエーターもぶ厚いものに取り換えた。
これで、寒さとはおさらばだと信じていたのに。
やっぱり、うちは寒かった。
数年ののち、他の用事で見積もりにやってきたビルダーのお兄さんが床の下にもぐると、「一番安い、うすっぺらい断熱材が張りわたしてあるね、これじゃ冬は寒いでしょ」といった。
ガクリと力が抜けた。
やっぱりそうだったのか。
あんなに一番断熱力のあるものをいれてくれとフローリング業者にいったのに。
あの頃は、やっぱりまだまだこちら側に知識も経験も足りなかったんだなあと悔しかった。
かといって、もういっかい家具をすべて動かして床を持ち上げるなんてしたくない。
♢
コロナで自宅勤務の頻度がふえ、その寒い部屋が私の仕事スペースになった。
そして、この冬は、ロンドンにしてはめずらしく氷点下、極寒の日が多い。あの、購入当時の白い息まではいかないにしても、底冷えがする日が続くようになった。
下手をすると、仕事をしていてもキーボードをたたく指がかじかんで、チャットがうまくできない。
もちろん、猫がいることで家のドアを閉め切らずにいることは大きい。
でも、やっぱり、あの隙間風がなんだかまたそよいでいる感じがする。
そう思って、数週間前に床をはいつくばってみた。すると、なんと、表通りに面した出窓の下の壁と、床の間に1センチ以上隙間が空いていた。
断熱材を敷いてもらったとき、ちゃんと閉じたと思っていたけれど、家自体の傾きか、はたまた防寒の一環で入れ替えた二重ガラスのサッシ窓の重みが影響でもしているのか。
時間の経過とともに結局またあの暗黒世界への入り口がぱっかり開いてしまったようだ。
♢
そこら中に100歳以上の住宅が現役で使われているので、ちょっとグーグルすると、そんな隙間を埋める道具もテクニックもいっぱいでてくるのがイギリスらしい。
その名もギャップフィラー(隙間埋め)という細い緩衝材でできたヘビのようなものをオーダーすることにした。それをナイフのような細いもので、家の隙間に詰めていくのだ。
隙間からは、あのとき、もう二度と見ることはないだろうと思った土台を通り、しっかりと冷気を蓄えた風がふきこみ、私の手や顔にあたる。
おりしもマイナス3度の寒さが染みる日に、私はこせこせと床にはいつくばってDIYに励んだ。
とりあえず、風を感じることはなくなったけれど、あらためて床の下にぼかんとあいた暗黒の空間を、くっきりを思い出させられてしまった。
ここ数日は、もっとぶ厚いラグを買おうと、ネットでいろいろ見て回っている。あの暗闇と戦うために。
いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。 ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。