4本でもにんじん
近所のスーパーから「あなただけのバウチャーです」とメールが送られてきた。
その近所のスーパーとはWaitroseといって、ちょっとだけ高級路線のスーパーだ。チャールズ皇太子の農園からきた無農薬製品なんかも扱っている。
イギリスというのは階級社会だ、とよくいうが、スーパーやデパートなんかにも、この層のひとはこの店にいくという雰囲気がなくもない。
どんなスーパーがあるかで、その街柄もなんとなく推し量られる。
個人的にイギリスで全国展開しているスーパーだと
Waitrose
Marks & Spencer
Sainsbury's
Morrison's
Tesco
Asda
Iceland
という感じで、高級路線がだんだん庶民的になっていく。
最近ではドイツ系の価格破壊スーパーであるAldiとLidlというチェーンが参入してきて、Sainsbury'sやTescoなどは「Aldiの価格と同じです」といったキャンペーンを余儀なくされている。
Waitroseはちょっとツンとおつにすまして、そんなのうちには関係ないわという感じ。
私は、今住んでいるエリアを選ぶとき、Waitroseがあることもポイントにした。
とはいえ、根っからの庶民の私は、実際の暮らしにおいては、Marks & SpencerとWaitroseの前を素通りし、少しお安いSainsbury'sまでてくてく買い物にいっている。
けれど、特定の品物はあそこのスーパーにいかないとないんだよねえ、というのは日本と同じようなものだ。
かいわれ大根はWaitroseにしか売っていないし、ギフトに最適の缶入りビスケットはMarks & Spencerが圧倒的に品揃えがよい。
で、Waitrose。
ドイツ系スーパーの攻撃にも動ぜず我が道を行くという感じだったこのスーパーも、ここ最近のコロナそしてウクライナ不況のためか、すこし品揃えも変わってきた。
それに加えて、私のようなあまり来ない客層にもメールで「おこしやす」と誘いをかけるキャンペーンを始めたようだ。
「あなただけに」というバウチャーで、ピンポイントに買ったことがある品物を安くすることで、足を運ばせようという作戦のようだ。
ところが、私が過去にWaitroseで買ったものといえば、他で品切れだった「2」のキャンドル(我が家の愚猫の誕生日にねこ缶に載せた)や、スペイン料理に必要だったうずらの卵。
バウチャーをもらったって、めったに買わんというようなものばかり。
Waitroseよ、発案は悪くない。しかし、その作戦は私には効かんのだよ。
なんて思っていたところ、転換期が訪れた。
先日、偶然Waitroseでお気に入りアイテムに出会ってしまったのだ。
それは
にんじんジュース。
もともと私はにんじんジュースが大好きだ。
NYの高級ホテル(メニューに無いものもお客様の望むものはすべてご対応させていただきます)の朝ごはんで、搾りたてのにんじんジュースだけを所望して円卓にいたひとたちに一瞬え?という顔をされたくらい。
自分で作るのはすりおろしのようなもので、量が飲めない。
かといって漉し器のついたジューサーを置くには台所が狭すぎる。
ああ、にんじんジュースをごくごく飲みたいと常日頃思っていたのだ。
ジュースに強いMarks & Spencerに売っているのはオレンジ&キャロットといった飲みやすい系。
近所のカフェでは生姜やリンゴも入った美味しいジュースを作ってくれるけどいかんせん高い。
私が飲みたいのはシンプルに濃厚でにんじんだけのお手頃価格ジュースなのだ。
そんなとき、Waitroseの棚ににんじんジュースをみつけた。
一本2ポンド80ペンス。
Marks & Spencerのおしゃれジュースは同じ750ミリリットルで3ポンド。カフェのは小さなカップで6ポンドする。
よし、これは買いだ!
あまりにワクワクしすぎて、Waitroseからの帰り道、ガラス瓶からごくごく飲んでしまった。
う、うまい。
とうとう見つけた。
まさに私が思い描く理想のにんじんジュース。
家までの道のりでは、頭の中にはトシちゃんがサイドステップを踏みながらNINJIN娘を歌っていた。
それから1ヶ月。
ちょっとわくわくしながら、例のメールが来るのを待っていた。
にんじんジュース、にんじんジュース。
キャンドルなんかじゃなくて、にんじんジュースのが来たら、ぜったい使いに行きますよ。
だーん!
そして、「あなただけのバウチャーです」。
待ちわびていたメールがやってきた。
そして、そこには、にんじんジュースの姿が。わーい!
近所のケバブ屋に夕飯にいこうといっていたヴィンセントに「ちょっと買うものがあるから、Waitroseで落ち合おう」とメッセージをおくり、いそいそとエコバッグをつかんだ。
頭に流れるのは今度はポンキッキの「いっぽんでもにんじん」。
タッタッタッタと早足でいつもなら通過しちゃう店頭へと急ぐ。
「なに、めずらしくWaitroseっていいだしたと思ったら、こんな重いのを4本も買うの?」
怪訝そうなヴィンセントにバッグを広げさせて、合計4本。
ガラス瓶の重みでずしりと沈んだエコバッグとともにセルフレジに向かった。
「だってね、だってね、割引バウチャーがきたんだよ」
そう話しながら、会員カードのバーコードをスキャンして、支払い最終画面で、クーポンのボタンを押す。
でも、なにも起こらない。
「あれ?おかしいな」
Sainsbury'sだったらここで自動的にもう私に発行されたバウチャーを引っ張ってきてくれるはずだ。
メールにバーコードがあるかもと思い開いてみるが、そこには会員ログインしてくださいという文字があるばかり。
え、ログインパスワードなんて覚えてないよ。
しかもiPhoneの画面の文字が老眼でしょぼしょぼしてよく見えない。
えーっと、パスワードを再設定…と。
モタモタする私の携帯を後ろからヴィンセントが覗き込む。
「え、いまからパスワード再設定始めるの?だってもうレジにいるんだよ。行列できちゃうよ。」
いやいや左右のレジも空いているし、行列はつくってない。
単に、えらく時間の掛かったお客さんだと不審がられているくらいだ。
そんなのわかってるのに、大きなカラダのヴィンセントはこういうときにやたらと小心者で周囲のことを気にする。いかにもアイルランド人気質だ。
え、しかもWaitroseのアプリをダウンロードしないといけないの?
今度はApple Storeにいってアプリのダウンロードだ。
ああ、もう本当に文字がよく見えない。
これのパスワード、なんだったっけ?
ヴィンセントが頭に乗せていた老眼鏡を奪いとって、画面をのぞく。
ガイジン向けのその眼鏡は、私の低い鼻の頭にはのっからず滑ってくるけど仕方ない。
「おいおい、メガネまで奪ってがんばってるな。大丈夫かい?」
レジで困ったときの対応をするおじいさんが心配してやってきた。
「バウチャーをね、なんとか出そうとしてるんですけど。アプリもダウンロードしておかなかったみたいで、ったくねえ」
ヴィンセントがおじいさんに訴える。
「こんなに時間かかるんだから、ものすごい値引きじゃなくっちゃ割に合わないですよねー」
嫌味なアイルランド人め。
と、ようやくバウチャーが開いた!
50ペンス引き。
えっ。
いや17%引きなんだから、食料品としては大きな値引きなほうだろう。
でも。
いや。
こんなに努力したのに。
ひゃはははは。後ろから覗いていたヴィンセントは大笑い。
いやいや、でも、4本買ったんだから、ともう一回バウチャーをスキャンした。
ビーッ!
アシスタントを呼んでください、という赤文字の画面になった。
「あのね、これは一回しか使えないの。だから、4本のうち、1本だけが50ペンスの値引きだよ」
さっきのおじいさんが笑いながら、機械のエラーを解除してくれた。
えーっ。
大山鳴動してネズミ一匹とはまさにこのこと。
大騒ぎしたけど、結局たった50ペンスの節約でした。
「これに懲りず、またおいでー」
おじいさんが笑いながら手を降ってくれたから、なんとか救われた。
いやはや、なんてことかしら。