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人生に一度くらい

高校時代、先生たちはみんな、今振り返ってもかなり個性が際立ったひとたちばかりだった。
おそらく、逆に、彼らに言わせれば、かなり個性が際立った生徒ばかりだったというのだろうけれど。

逆立ちしたって文系なのに、附属に育ったがゆえに数学Ⅲまでが必修だった私。
あまりにも「なんで数学を勉強しなくちゃいけないのか」を質問しすぎたゆえに、さわやかに「みんなの邪魔にならんように黙っていなさい」と教室の中で、透明人間にしてもらった。いわば「おみそ」。

これについては以前にもnoteに書いた。

受験がないおかげで、何かを詰め込むという勉強は体験しなかった。

世界史の教師は、年号を覚えさせるということはなく、いつも「なぜ」「どういった流れで」を語り聞かせた。
そのおかげで、歴史というのは、人間の、覇権を狙う気持ちや拡大思考の対立やせめぎ合い、イベントが連鎖しつながっているものであり、ピンポイントに年号を覚えても意味がないと悟った。

これについても以前にnoteに書いた。

現代国語の授業も、半分は、文学作品の分析に名を借りた「人生とは」というレクチャーだった気がする。

いまから35年も前なのに、いまだに映像が浮かぶ光景がある。

私は教室右やや後ろ側の席で。
左手に広がる窓の外には、少し色づき始めた木々の朱色が広がっていた。
教卓のところに座った先生は、ふわふわのパーマあたまにくっきりと口紅。その朱色が窓の外の紅葉とリンクしてみえた。
秋の午後の少し柔らかな陽射しがさしこんでいた。

「にんげん、誰でも一生に一回、ものすごく勉強するときがくる。
そして、そこで本当に必死に勉強したら。
残りの人生は、それを食いつぶしていけるのよ」

そのときは、まったく意味がわからなかった。

高校時代の必死の勉強、なんて、試験前くらい。
いやそれだって、みんなで科目を分担していたから、私は世界史と現国のノートくらいしか真面目に取っていなかった。
試験の直前はそれぞれ同級生から渡されたノートのコピーに、チェックペンを引いておぼえるくらい。

残りの人生、食いつぶしていけるくらいの勉強?

わからないまま、でも、そのひとことは、ずっと心に刻まれていた。

アメリカの大学院生活。それは、キャンパスでの仕事がある日以外は、図書館に住んでいるんじゃないかと思うくらいだった。

普段の図書館は、朝7時半~夜12時まで開いていた。
試験期間中は午前2時まで延長される。
アメリカの大学ではわりと普通だと思う。

なにしろ、教室にいるためだけでも、その前にやっておくことが多すぎた。

「次回はここを討議します。この章からこの章まで読んでおきなさい」

もともと大学は経済学部でも経営学部でもなかったのに、専門違いのMBAに変更しようと決意したのは自分だ。
でも。これほどとは。

授業内容に追いついて、ディスカッションに参加するためには、まず中身を把握しておかなくてはならない。授業は予習を前提として始まるから。
そして卒業を急ぐ私の受講する授業数は多かった。
そのそれぞれのクラスが膨大なページ数の予習を要求する。
英語の語彙が足りない。
なんどもなんども辞書を引かずには、教科書1ページ読み進めるのもままならない。

イライラしてきて、焦りがつのる。

閉館時間になって、追い出されるように図書館をでて。
終わらないまま、ルームメイトと暮らすアパートに戻り。
味噌汁を作っているのを忘れ自室で勉強を続け、焦げ臭いにおいに大慌てでキッチンに駆けたこともあった。

「乗せてってやるよ」

赤いトヨタのピックアップトラックに乗っているロッドとは、コースのオリエンテーションで初めてあった時から、不思議とウマがあった。

アクセントの強い私の英語を「オマエの英語、何かに似てると思ってたら、村上春樹の本読んでいるみたいなんだよな」といって、理解してくれた。

ミネアポリスとセントポールの二つの街にあるキャンパスを、お金を節約するためにシャトルバスで移動している私に、ロッドはいつも声をかけ、一緒に乗せて行ってくれた。

「もっと発言しないと。
今日なんて、せっかくトヨタのカンバン方式の話題だったじゃないか」

聴き取りは大丈夫だった。
だから授業のトピックが何かくらいはついていけたし、みんなの発言だって理解できていた。
でも。

「みんながロッドみたいに私を分かってくれるわけじゃないからさ」

いいたいことが浮かぶことは何度もあった。
最初は発言しないとと思って、奮い立たせて手を挙げていた。

でも、私が話し始めたときの、みんなの、教授の、「まいったな、このヒトのコメントは、よーく聞かないと意味わかんないんだよな」という表情がつらかった。
焦ればあせるほど、洗練された言葉はでてこなくなった。
生活に困らない英会話、と、アカデミックに議論でき論文が書ける語学力との違いを、まざまざと突きつけられていた。
自然と、発言するのがためらわれ。
だんだんと挙手も減っていった。

「話さなかったら、分かってるってことが伝わらないだろ。
授業中に発言しなきゃ、内容についてこれてないと思われるだけだぞ。
成績はそこも入ってるんだからな」

ロッドが助けようと思っていっているのはわかっていた。
わかっていたけど、これ以上ストレッチして頑張るのは無理だった。

ときどき、高校時代のホストシスターだったジェニーの家に息抜きに行く以外、休みなんかなしでずっと走っていた。
頑張って教科書を読んだし、辞書も引いたし、論文も書いた。
睡眠時間は限界に切り詰めた。
それでも。

皮肉にも、会計学だけはクラス一番だった。日本では大の苦手だった数字が、言葉の壁がないおかげで得意科目に変わってしまった。

それ以外の授業は苦戦に苦戦が続いた。

学費と滞在資金が途中でつきる心配があったから、とにかく単位を落とさず最短の1年半で卒業しなくちゃと自分を追い立てていた。それが、さらにプレッシャーになった。

「だけどさ。頑張ったからって急に英語がうまくなるわけでも、経済用語がわかるようなるわけでもないんだもん。」

やっぱり無謀だったのかも。

ロッドのピックアップトラックの車窓からミシシッピ川を眺めながら、少し投げやりに言ったけれど。
最後のところだけは自分の心の中にとどめた。

ちょうどグループワークが始まるタイミングだった。

私は、アイオワ出身のロッドと、サウスダコタ出身でミネソタのデパートDayton'sに勤めていたデイヴ、大学卒業からそのまま進学してきた地元ミネソタ出身のジャレッド、そして隣のウィスコンシン出身のエリックと5人でグループを組んだ。

グループワークは、企業を一つ選び、決算報告書や財務諸表を読み取り、どのような点がうまくいっているのか、どのようなところに問題があるかを批評・判断しプレゼンするというものだった。

その頃私はアメリカの企業のことをあまり知らなかったし、かといってあまり巨大な多国籍企業を取り上げては収集がつかなくなる。
結局、地元の企業を選ぶわけだが、そういう意味で、中西部出身アメリカ人の輪に入れてもらえたのは幸運だった。
もちろんロッドのおかげは大きかった。
彼は、みんなが私のアクセントに慣れるまで、まるで通訳のように、私の言いたいことを繋いでくれたから。

そしてなにより。

「じゃ、またあのスペースで」

いつの間にか、図書館の玄関をはいって右側の大きなテーブルが、グループワーク以外の時にも、みんなが集まる場所になっていた。

リテール業のあれこれは、Whole Foods Marketで働いていたロッドと、Dayton'sにいたデイヴが。
財務諸表は英語依存の少ない数字のエリアだったから私が何とかできた。
地元ならではの企業ネットワーク情報はジャレッドが。
そしてプレゼンはエリックとロッドが魅力的に作り上げてくれた。

みんなが強みをもちよって、弱みをカバーして。

「おっし、じゃDavanni'sにいくか!」
「今日はTavarn on Grandにしようぜ」

深夜まで勉強した後は、たいていみんなで夜食を食べに繰り出した。

そうこうしている間に、少しずつ、すこしずつ、スピーチ力も語彙も改善していった。

仲間がいると思うことで、また彼らが突っ込んだりサポートしてくれることで、クラスで発言するのも怖くなくなった。

同じころ、オンキャンパスで働いていたオフィスでも、電話応対のおかげか英語力は鍛えられていった。
スーパーバイザーのキャロリンが時間を掛けて会話をしながら私の論文をプルーフリーディング(校正)してくれ、自分の意見を英語的な論理でまとめられるようになっていった。

みんなが、私を、育ててくれた。

科目を分担してノート係を決めていた附属時代もそうだった。
みんなそれぞれが得意な科目を担当して、強さと弱さを持ち寄っていた。

でも、あんなに胃から血がでるくらいに勉強したのは、後にも先にも、大学院での19か月だけだった。
そして。
なんとか、1月卒業を達成できた。

「にんげん、誰でも一生に一回、ものすごく勉強するときがくる。
そして、そこで本当に必死に勉強したら。
残りの人生は、それを食いつぶしていけるのよ」

あの時、MBAという文字そのものが、女性一般職だった自分がキャリアチェンジすべく履歴書に書くための「なにか」だった。
実際にMBAで学んだ「なにか」を、きちんと役立てることができるようになったのは、もっともっと後のこと。

あ、これ、あのときジマーマン教授のクラスで討議したのと同じ展開だな。
あ、これ、テレーザのマネジメントの討議でやったケースにそっくりだ。

グローバルのプロジェクトとしてERPシステムを展開していた時。
最終的に業務ステップがどのようにファイナンスにつながるかを理解していることが求められたし、ガイジンとしてチームを率いていたからマネジメントの授業のケーススタディを思い出すことも多かった。

最近、日本オフィスのメンバーにグローバル化について話すようになり、またあの頃学んだことを振り返ることが増えた。

そして気づいた。

ああ、あのとき高校の夕暮れの教室で、先生がいってたのは、
これだったんだ、と。

勉強法はみんなそれぞれ。

誰かより自分。勝ち抜かなくてはならない、という競争原理。
そんな「受験戦争」では通用しないのかもしれないけれど。

弱みをカバーし、強みを持ちよる。

私の勉強法は、振り返ってみれば、「みんなとがんばる」なのかもしれない。


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ころのすけ
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