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トルコと私

本当はポルトガルに行きたかった。

今から10年ほど前。
私は、ヴィンセントと初めてのホリデーの行き先でもめていた。
東京オフィスにいたときから、当時の上司ダニエルが、自分の郷里リスボンを絶対訪ねるべきだとずっといっていたから。

でも、ヴィンセントは譲らない。
オレはEUを出たことがほとんどなくて、パスポートにスタンプがないから、エキゾチックなところに行きたい。
さんざんいろんな国に出張しているんだから、そのくらいいいじゃないか。

ふむ。
まあ、トルコも行ったことはない。
何となく、宮殿とモスクとグランバザールのイメージしかないけれど、じゃあ行ってみるか。

初めてのイスタンブール。
それはまず驚きの入国から始まった。

到着時にお金を払ってビザを購入する必要がある国、アイルランド。
ビザ不要の国、日本。

EUに加盟したがっている国のはずなのに、ヨーロッパの国よりも日本のほうが好待遇。
すごい。親日じゃん。

その時は知らなかったのだ。トルコが非常なる親日の国であることを。

トルコの親日の歴史。
それは、1890年、オスマン帝国船籍のエルトゥールル号が紀伊大島近海で座礁したことに始まる。
遭難した乗組員たちを和歌山県串本町の町民が救出し、生存者たちは国民からの義捐金や明治天皇のバックアップにより、大日本帝国海軍の比叡号と金剛号でイスタンブールに帰国した。

私がこの逸話でいちばん大好きなところは、この後の、トルコからの「倍返し」のくだりだ。

1985年のイラン・イラク戦争の時。
在イラン邦人の救出を、日本航空がリスクの高さから断念したとき、万策尽き果てた日本政府からだめもとで依頼を受けたトルコ側がなんと快諾したのだった。
本来なら自国民救援のため準備されていたトルコ航空旅客機は、2機に増やされ、在イラン邦人を乗せテヘランを離陸した。
本来ならトルコの利益を最優先すべき政治家として自国民の命を優先しなかったと批判を受けることも考えるだろうに、この即断。そして、空港に来ていたトルコ国民たちも日本人を優先し、自分達は陸路で脱出することに怒らなかったという。

しかも。
直後、日本の新聞などでは、なぜトルコが自国民を陸路に切り替えてまで日本国民を助けてくれたのか、わからなかったらしい。
日本が、中東においてイラン、イラクとも中立した立場で外交していたから、などの考察がされていた。
やがてわかる。
それが100年後の恩返しだったということが。

この恩返しエピソードのことをネット上で見つけたのは、初トルコ旅行から5年ほど後のことだった。

そして、この話が合作映画になっていることも知った。

観てみたい。
しかしイギリスではすべがない。

無理かとあきらめていたところ、たまたまセイシェルに行くため乗ったロンドンからイスタンブール行きのトルコ航空のフライト、その機内映画にリストされていた。

飛行機の中、
しかも一人旅なのに、
鼻ズルズルの大号泣。

さらに偶然が続く。
イスタンブールから乗り継いだセイシェル行きの飛行機が、なんと1985年救出当時のデザインの塗装がほどこされた「KUSHIMOTO号」だったのだ。

話は戻って、イスタンブール。

ブルーモスクにアヤソフィア。
トプカプ宮殿にボスポラス海峡。
私たちは、残暑の激しい陽射しの中で観光名所をひとしきり巡り、そしてとうとう、私がいちばん行きたかった場所を訪ねるときがやって来た。

そう。それはハマム。
当時まだロンドンの家にシャワーしかなかった私にとって、サウナのあとに垢すりというハマムは、ぜったいに訪ねたいスポットだった。
でも、裸の環境だ。
ここはしっかり調べておかなくてはと、日本人に人気だという店を書きだしておいた。

そのメモを持って、住所に向かったものの
しっかりと確認したはずのその店がどうにも見当たらない。

「日本人かい?なにか探してるの?」

ムンとした蒸し暑さに、もう諦めようかとやや投げやりになっていたころ。プリントアウトした地図を見ながらキョロキョロしていた私たちに、おじいさんがカタコトの英語で話しかけてきた。

「いえいえ、だいじょうぶです、ほんとに」

こういうとき、一緒にいる図体だけ大きいアイルランド人は人見知りすぎてあてにならない。
だから私が笑顔で断った。

けれどあくまでおじいさんは食い下がる。
私の手元の紙をのぞき込み、

「お、ハマムを探しているんだな。でも、この店は高いばかりであまりよくないぞ。わしの知っている店に連れて行ってやろう」

なんせ、この時には、私はトルコの親日ぶりについて、ビザ免除の経験でしかしらない。

これまで海外で日本人といわれたら、金を持ってるだろう、なにか売りつけてやろうという経験が多かったから、これも、ただの親切心な訳がない、と警戒心が先に立つ。だから、ドキドキだった。

「さあさあ、こっちだ」

断っても、ことわっても、おじいさんはとにかく知ってる店に行くべきだとゆずらない。
ええい、たとえぼったくりされるんだとしても、もう仕方ない。
ここは腹をくくろう。

えっ、ほんと?ついてくの?
大丈夫なのかな。オレはしらないぞ。
そんな顔をした頼りないヴィンセントを従えて、おじいさんについていくことにした。

「おーい」

おじいさんが連れて行ってくれたのは、調べてあったハマムの写真にあったキラキラの近代的設備とは対照的な、クラシックなタイルの貼られた古式な建物。
でも、外の猛暑が嘘のように、中に入るとスーッと風が通り、涼しさが感じられた。

おじいさんが私たちのほうをみながら早口のトルコ語で、店のオーナーらしきおばさんに話を進めている。

「男はこっち、女はこっちが更衣室。コースはもういってあるから、あとはそれぞれの担当に従って風呂を楽しめばいい。あ、みんな英語はできないけれど、大丈夫だからな。じゃ、よい風呂を!」

ニッコリおじいさんが笑いながらギラギラ灼熱の表通りへ出ていくと、細く開いた扉の間から、そのシルエットがくっきりと逆光に照らされた。

浴場は、入り口からは想像できない広さだった。
トプカピ宮殿でみたような、まさに高い天井まで美しくタイルで飾られたスチーム風呂。
身振り手振りで、面倒を見てくれたおばちゃんが、まるで調理台のようにすこし高くなった台に私を乗せ、くるくると気持ちよく垢すりをしてくれた。

うわ、これきっと、壁の向こうの男風呂で、人見知りのアイルランド人はめちゃくちゃ印象的な体験をしている違いない。
くふふふふ。

まな板の上のマグロのようにぐるんぐるんと垢すりされながら、それを想像してつい笑いがでてしまった。

「グッド?」

おばちゃんが、私のその含み笑いをうけて、にっこり笑ってくれた。
うんうん、グッドグッド。

すっきりさっぱりして、更衣室からでてくると、オーナーさんがこれまた大きな笑顔で迎えてくれた。

そして、いわれた金額は。

プリントアウトしておいたお店の料金の、三分の一ほどだった。

うたがって、悪かったな。

そう思ったけれど、なにしろ言葉が通じないから、おじいさんへの伝言もお願いできない。

空港の入国だけでなく、町の人も、日本人にやさしいんだなあ。
しみじみ思った経験だった。

その後、トルコの一番有名なリゾート地ボドルムに移動した私たち。
地中海に面した海岸沿いのシーフードレストランで、夕飯を食べることにした。

地元の家族連れで1階はいっぱい。私たちは狭い2階席に通された。そこにはスラっと背の高いおじいさんが待っていた。

「二人?海が見える窓側はどう?」

おじいさんは英語で言った。
でも、メニューはトルコ語だけ。だから、私は下の冷蔵ケースにいって、実際の魚をみて注文したいとお願いした。

「お、日本人なのかい?オレはね、船乗りだったんだよ。日本にもいったよ。コーベにヨコハマ。」

そして、やってきた魚の丸焼きに、なんと醤油の小瓶を出してくれたのだ。

「これ、ロシア人観光客が置いてってくれたんだけど、日本のだろ。な?」

地中海を望みながら食べる醤油のかかった香ばしい焼き魚。
感動だった。

おじいさんは、お店のオーナーさんだった。
最後には3人でラクを飲み交わし、そして、なんと店員さんが着ているTシャツまでおみやげにいただいた。

その後、プロジェクトのシステムエンジニアのメンバーに徐々にトルコ人が増え始めた。
私のトルコでの経験を話すと、みなニッコリして「うん、みんな日本はアジアの優等生として尊敬しているから」と笑った。
そして、ピスタチオのロクム(ターキッシュデライト)や、マロングラッセをおみやげに買ってくれるようになった。

お礼に私が日本から買ってくる揚げせんべいを、おいしいおいしいと食べてくれた。

私とトルコ。
こんなに近くなるとは思いもしなかった。

その後イスタンブールには3度行った。
チームにいたハカンが、いつも、いろんなレストランのおすすめを教えてくれる。
おいしいものを食べ、ネコを愛で、壮大な海峡の景色に癒される。

次回は5月。
アメリカの妹たちと、すでにトルコ旅行を計画している。

楽しみだなあ。

いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。 ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。