
令和七年のお正月 人の思い
今年は、年末から家族全員が集まっていた。しかし息子だけは、M&Aによる新店舗の拡大、それによるマンパワー不足(パート、アルバイトの不足)で、過労からインフルエンザにかかりアパートで寝込んでいた。流石に可哀想なので、妻が年末にかけてアパートへ行き、ご飯を作りおきしていた。
年始は、初詣後、車で妻の実家へ新年の挨拶に行く、弱っている息子も途中で拾った。私の家族は一緒に過ごす(遊ぶ)のが好きだ。
年末年始になると、自分を取り巻く友達、家族との親密さが浮き彫りになる。そこで人への思いとして、仕事の話、子供と過ごす時間の話を書いた。

私の仕事
私の会社(2021年解散)、と言っても中小企業、今風にいえばベンチャー企業、これもITを仕事にしていたからベンチャーと言えるが、基本は設計事務所や電気工事屋さんと変わらない、情報システムのインフラを構築していた。
その頃からIT土建、IT原始人と言われていた。サーバー、スイッチなどのインフラ設計・設置・設定・工事までする。施工管理として工事現場もうろつく。情報インフラは、設置場所、空調設備、電源、通信、全てが絡む設計と工事となる。
仕事と仲間
今回は仕事と人間関係の話をしよう。「そんなの昭和の話だよ」と言うなら、それでもいい、でも人間の本性など代わり映えしないので、自分達が新しい価値感を持っていると言っても、それは歴史のどこかの繰り返しだ。自分が知らないから新しい事だと錯覚する。
切ったはったの世界
私にとって仕事の人間関係は昭和から平成、令和へ引き継ぐような形で続く。ここにはスマートな話は全くない。
根本は「切ったはったの世界」だ。「Win-Win」の関係は世の中にはないと思う。
もしこれから新事業を始めようと思ったら、誰かをドブに蹴り入れる。また自分が蹴り込まれることもある。そこに正義はない。負けた相手と組んで新しい仕事をする可能性もある。
切ったはったの世界
非情な、殺伐とした、といった意味
Win-Win
経営学用語の一つ。取引が行われる際に交渉をしている双方が利益を得られるようになるという形態
嫌がらせ?戦法だろう
東京が拠点の私達が、ある地方の電気(IT)設計・工事を請け負ったら、私達の親会社の照明器具の不買運がその地域の電気工事会社で勃発した。地方の工事屋さんの死活問題なので、その行動はわかる。
親会社のお偉いさんが怒鳴り込んできた。
「お前らなんとかしろ!」
仕事を奪って来いと言って、「やり過ぎだ。何とかしろ」と言う。こんな理不尽は社会ではよくある出来事だった。
私は社長と一緒に、その地域をまとめている電気工事屋へ謝りに行く。妥協案として下請けに地元の会社を使うことにして手打ちにした。
仕事とは綺麗事ではすまなかった。一度入札で勝った大きな会社の営業に、「今度は潰してやる」と言われたこともある。ある意味、この手のけんか腰の営業は嫌いじゃ無い。もっと汚い人間は沢山いる。
方法論
ある大手のゼネコンの現場所長から脅しの電話もあった。
「お前ら、何時金を入金する!」これは現場に入る為の現場協力金の請求だ。今は綺麗な請求になっていると思うが、当時はヤクザの世界と同じだった。ITのシステム工事でも、入札金額に応じた請求が来るので大変困った。
そこで私はゼネコンの下請けではなく施主と直接契約する。それを盾として回避した。
その代わり、現場の共有設備を使うなと言うので、別途、現場事務所として近所の空き家を借りた。こちらも意地だが、現場の工程などの嫌がらせを防止するため、工程管理において施主を捲き込み管理を徹底した。
それでも現場作業員の専任者に差し入れをしたり、飲みに誘ったりすれば、人間関係は築ける。中にはどうにもならない場合もあるが、仕事とは人との関係でしか回らない。
「いや、そんなことはない。 今やネットの時代だ! 現場管理はリモートで出来る」と言うならそれでいい、私にとってメソッドはどうでもいい話だ。その方法で頑張って完成させればいい。ただ楽は出来ないはずだ。
仲間を作る
そんな中で親友というより戦友みたいな関係も出来てくる。私はある時期から敵はつくらないというスタンスを貫いた。
「こいつ、ぶち殺したい」そんな事を私は性格上思ったりする。しかし、頭を下げて協力してもらう。好かれる、しかし、なめられない。このさじ加減が難しい。人を見抜く力も徐々について来た。
それでも世の中には詐欺師もいる。一見いい奴だが、裏切られることもある。そうこうしていると段々本当の友達が見えてくる。年齢を重ねれば苦労と経験を積み重ねているので、お互いがわかり合えてくる。
何時か仕事の物語を書いてみたいが、今はまだ仲間が現役でいるので難しい。
ここではあまり言えないが、仕事に追い詰められて、または仕事が原因で自殺した人も身近にいる。また過労でクモ膜下出血で倒れた人もいる。パソコン、クラウド、AIなど仕事におけるメッソドが変わっても人の本質、つまり強さと弱さは変わりようがない。
その時助けになるのは、家族そして仲間だ。私は幾度となく家族や仲間、恩師達に助けられている。最後に頼れるのは人しかいない。
***
子供と過ごす時間
親が子供と過ごせる時間は8年から9年、そして、その90%の時間が9才までと言う。データは何処かから出ているか知らないが、自分で雑に計算してみると、妥当な時間だと思う。この手の計算は雑でも緻密でもたいして変わらない。
私の雑な計算
0才から5才 5年間 係数は80% 4年間
小学校から中学 9年間 係数は50% 4.5年間
合計8.5年間となる。
このデータを提示して、子供と過ごす時間は短い、だから大切だ。とカウンセリングが入る。これがよく分からない。子育てを終わった私としては、
「そうなの?」「それでいいの?」となる。
何故なら、子育ては、環境が一番影響するファクターだ。時間ではない。
DVの親と過ごす時間が多くても地獄だ。過干渉の親と過ごす時間が多くても結末は悲惨だ。
親と過ごす時間は幸せであるけど、長さには無関係だろう。それは勝手な解釈だと思う。自分と親の関係を顧みて、どんな時間が幸せだったかを思いだせばいい。そして、同じ事を子供にしてあげればいい。それだけだと思う。
親父と過ごした時間
親父は大正生まれだ。太平洋戦争において、この世代は7人に1人が戦死している、戦死者は200万人だという。国に翻弄された人生だった。
また戦後、価値感が一変した。親父は大学生から兵隊となり、戦後、米軍基地で通訳のアルバイトしていた。その真意を一度も聞くことなく77才、私が49才の時、突然亡くなった。
子供の頃、親父と過ごした時間の中で、楽しい思い出はドライブだ。親父が買った初めての車、スバル360で、お親子4人で箱根へドライブした。私が小学3年、弟が小学1年生の時だった。
親父はバイクや車が好きで、運転も好きだった。だから夏は毎年、ドライブがてら海に連れて行ってくれた。
四国へドライブ
私が6年生、弟が4年生の夏のお盆休みに、伊豆の白浜まで海水浴に車で出かけた時だった。車はサニークーペ。新車だった。
帰り支度をしていた時だ。
お袋が「これから四国の高松へ行くから」と言う。
高松はお袋の実家の大きなうどん屋がある。
「本当!」私と弟は大喜びした。夏休みの大旅行の始まりだ。
伊豆の白浜から、深夜にかけて、東名、名神を走り抜ける旅が始まる。家族を乗せて長距離を車で走る旅、当時としてはまだ珍しい。この自由な旅は、米軍基地勤務の父親らしい発想だった。
深夜の高速道路は空いている。まだ物流として長距離トラック運送が余りない時代だった。トイレ休息で寄った山の中のパーキング、その外灯にはカブトムシが舞っていた。
宇高連絡船のカーフェリーで四国へ上陸。お袋のお勧めで連絡船の立ち食いうどんを食べる。
「美味い」初めての体験だった。
「ここは***ちゃんが経営しているから、美味しいよ」とお袋が言う。
高松は想像より都会だった。それでも海は近い。私は午前中、実家から歩いて海に行き、夕方は近所の銭湯へ行く。そんな1週間を過ごした。色白の肌が、段々と真っ黒になって、地元の少年達と遊びだしたが、彼らの海での遊び方が面白い、私も見よう見まねで潜って遊んでいた。ヨットにも乗った。
多感な少年期、この親父の破天荒な夏休みの旅行は今でも覚えている。
そのことを思いだすと幸福感に包まれる。これが子供と親の幸せの時間だろう。
過ごす時間は長さではない。
私は妻もそうだが、子供達と一緒にアウトドアで頻繁に遊んでいる。
それは、このような体験が幸福だったからだ。そして、今でもその関係は続いている。
