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個人的な教育の話20 昭和の子育て

子供が大人になったと感じる時
 ある程度歳をとっていくと親を客観的に見ることが可能になる。しかし、心の成長と自立は同時進行なので、成人してもパラサイトしている子供は、おそらく親を客観的に見ることはないだろう。親を何時までも打ち出の小槌と見ている。

父を疑う娘1
 大学生になっていた娘1が、こんな事を私に言った。
「私が高校生の頃、お父さんが言っていた事を兄に話したら、兄はこう言ったの」
「お前さぁ、親父の話だけど、適当で嘘も言うから、真に受けないほうがいいぜ、俺はそれで酷い目にあった」
それを聞いた私は「そうなの」と、とぼける。

 真面目な娘1はご立腹していたが、隣でその話を聞いていた妻も
「この人、真面目な顔して嘘を言うから、気をつけなさい。口癖で基本的に、本当にと言っている時は、大体適当な話だから」
「そんなことはないよ、でもあいつ(息子)も大人になったなぁ・・」と更にとぼける私。
「あっ、洗濯をとりこまないと」と妻。
「私、課題があったから勉強しよう」と娘1。
そして2人は席をたった。

***
俺の場合
 1975年、俺が18才の時、親父が手伝っていた今で言うベンチャー企業の会社が潰れた。そしてその後、親父はストレスから虚血性心疾患で倒れて入院した。おそらく喫煙と食生活も影響していたと思う。
ストレスはその人間の弱点をここぞと攻撃してくる。

 当然ながら家の収入源が絶たれた。
お袋はショッピングセンターでのパートをフルタイムで始めた。高3の俺は世田谷にある都立の工業高校へ通っていた。ホンダのCB750(ナナハン)に乗っており、地元の暴走族だった。それでも家の雰囲気なのか、何となく大学進学を希望していた。つまり恐ろしい程の世間知らずだった。
端らか見れば「冗談は、顔だけにしてくれ」だ。

 どうしていいか分からない俺はお袋に聞いた。
「俺、大学へ行くけど大丈夫?」これは親父が死に損ないの状態なので、学費が心配だったからだ。
「あぁ、心配ないよ。そのくらいのお金はあるから」
さすが元日銀のOLだ。お金管理はしっかりしている。
「本当、良かった」
「それより、お前は受かるのかい?」
「それなぁ」俺は中学までは比較的上位の成績だったが、高校で全く勉強しなかった。そして阿呆になった。

 慌てて、俺は高3の夏休みから勉強を始めた。英語が全く分からない、国語も漢字が読めない、書けない。

 俺が反面教師だつたのか、弟の時、親は真面目に動き、弟は某国立大学の付属の中高一貫校へ通っていた。その弟から中学の英語の教科書を貰った。実は自分の高校の教科書は学校へ置き放しで、殆どが盗まれて無くなっていた。

 夏休み、工業高校でも進学希望者は数人いる。そいつらと一緒に、英語の教師に頼んで補習授業をしてもらった。そのメンバーで他の先生にも補習授業を頼んだ。

 皆、俺以外は暴走族ではない。また学校を停学したり、補導暦もない。
そんな俺を見て、クラスの担任は「お前、大学受験するのか・・」と呆れて笑っていた。
当然だが、1浪は覚悟の上だった。

1970年代の大学進学率
 高校を卒業して、晴れて浪人の身となる。俗に言うモラトリアムの身分となった。今はニートと言う。違うなぁ、ニートはそこから抜け出すことを諦めた人達だ。俺は抜け出したかった。

 1970年代の大学進学率は20%だった。そして5人に1人が浪人していた。女子の進学率は数%だ。今の時代の大学と価値は全く違う。ステータスは高い。2024年の進学率、女子50.9%,男子57.7%となる。首都圏は80%に近い。そして女子の方が勉強をするので、成績もいい。

底辺からのスタート
 東京郊外の文教圏に住んでいたので、都立国立、立川、武蔵などに地元から通っていた同学年達は有名大学へ進学していた。
俺は1浪して、ようやく自分の立ち位置を客観的に見ることになった。
「駄目だこりゃぁ」

 ナナハンを乗っている頃の無敵感が俺から消えた。偏差値は末端だった。それより彼達と生きているカテゴリーが違い過ぎた。
話が合わない。女の子の趣味も合わない。

 周りにまともに勉強している人間がいないので、ノートの取り方から始まり、勉強方法を全く知らなかった。だから時間を費やす割に全然成績が伸びない。

 これはスイミングで言えば、バタ足もまともに出来ないのにクロールを泳いでいるのと同じだ。頑張ってもスピードが出ない。つまり成績は上がらない。そして劣等感だけが上積みされた。

自勉を軌道に乗せる
 2浪目で、ようやくベースを固める勉強方法に気づいた。数学は基礎問題を沢山やり、英語は単語、熟語、構文を覚えた。国語は読書をして、分からない漢字、熟語を書き出し整理した。

 あっと言う間に、成績はEクラスからBクラス(E<D<C<B<A<S)へ、それ以上へ行くには時間がなかった。
「きちんとした教育、つまりまともな高校へ通っていれば身につく程度の事に2年を費やした」
学校という教育環境は大事だ。勉強する人間が周りにいないと、また出来る人間がいないとハンディとなる。
しかし、その分、世の中を学べる利点もある。警察の対応とか、バイト先の過酷労働、搾取。後は危ない人達の臭いなどなど、生きる力は得られる。

 3度目の受験にて、ようやく法政、日大、明治、東京電機等の中堅理学部、工学部に次々に受かった。しかし本命の早稲田、電通大には届かなかった。工業高校卒の元暴走族としては、自勉ではここまでだと諦めて進学した。この辺りは工業高校卒なので、現実主義であった。

 学費は親が約束通り出してくれた。有り難かった。実は受験勉強を自勉したことで、俺は勉強が好きになっていた。アルバイトは高校時代に散々やっていた。人にこき使われる底辺の労働にはウンザリしていた。だけど家庭教師なんかは無理な話だった。

 そんな折、俺は大学で奨学金の説明を受けた。この当時、親父はまだ復活してなく、お袋のパート収入だけだった。小遣いなどとんでもない話だった。

 奨学金は頭のいい奴らの話だと思っていたが、要項を読んでみると、高校時代の合計成績が3.5(5段階)以上なら申請可能であった。
「これくらいなら行ける」
工業高校では皆が馬鹿なので、俺はある程度の成績を取っていたのだ。

 俺は成績証明書をもらいに久しぶりに世田谷の一等地にある母校へ行く。
そこで、担任に偶然会う。
「そうか、合格したか、頑張ったなぁ」と大変喜んでくれた。
「成績表? かさ上げしておこうこうか」
「いいぇ、結構です。私、更生したので」

 申請は通り、月2万円程度のお金を貰うことになった。
私はこれを小遣いとした。そしてアルバイトをあまりせず、勉強と部活(モトクロスレース)に没頭した。

 その後、大学4年の春、モトクロス中の事故で大怪我をし、手術、入院する。これも全部親が面倒みてくれた。特に文句も言わない母親だった。親父は一度も見舞いにも来なかった。

親の学歴と価値感
 ちなみに親父は大正15年の産まれで大卒、母親は女学校まで出ている。日本銀行で行員をしていた。あの時代では高学歴の部類だった。そして何故か、俺は放任教育だった。おそらく戦争の後遺症なのだろう。「自由を謳歌しろ」と言うことだ。
それでも俺のしでかしたことの後始末はほとんどしてくれた。そこも不思議だった。

 そんな両親だが、親父は60才位のころ、インドネシア、マレーシアとバイクツーリングをしたりして自由に生きていた。子供の将来など全く興味がないと俺は思っていた。その辺りの真相は話す機会もなく、早くに亡くなってしまったので、よく分からない。

 
親を客観視する
 そんな、親を客観的に見ることが出来るようになったのは、彼らが亡くなって暫く経ってからだった。

 俺は両親が亡くなったあと、2人の故郷に行ってみた。そこで子供時代を生きて、戦争に巻き込まれた。そして戦後の東京へ出てきて、復学した親父は母と学生結婚する。親父の下宿先から新婚生活が始まる。
そんな希望に満ちた両親を思い浮かべた。

 そして結論として、基本的に俺はいい歳までパラサイトだった。
本当に御世話になりました」


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