一つの絵から 天草の崎津教会 大江天主堂
小説家なら、一つの絵から幾つも物語が作りだせる。そんな話を聞くが、小説家でも何でもない私にそれは無理な話だ。でも自分の描いた絵からはある程度駄文は書ける。そう思ってまずは第1弾。
この小さな絵は80枚描いた。現在も描き続けている。絵は水彩色鉛筆をメインにして、色数を絞って描いている。今は6色程度を使っている。
隠れキリシタンと崎津教会
熊本天草の漁港にある教会だ。天草へは爺さんのお墓と檀家の寺もあるので、5回ほど行っている。その都度、この教会へ訪れている。崎津教会は隠れキリシタンの文化として世界遺産一つだ。
崎津教会と諏訪神社の鳥居のショットはいい。今度描いてみたい。
この崎津教会に隣接する寿司屋「海月」は3回ほど寄っている。親方が海で捕ってくる魚を使うので、ほぼ白身の近海魚だ。これが抜群に美味い。
崎津漁港の堤防でたたずむ、右の端に小さく見える白いものはマリア像だ。父が亡くなりその時に初めてここに訪れている。その15年後、2018年の春、桜が咲き乱れていた日、長い介護の果て母親が亡くなった。
その年の秋、ここ崎津を再び訪れた。
その時、この堤防からの景色を目の前に見て、私は懐かしさと、ようやくここまで来たという安堵感で、ここ何十年以来の安息を味わった。
「俺もようやく人生の終盤」
以下説明はネットより拾っている
﨑津漁港は天草諸島の下島の南部に位置する漁村で、土地が狭いため海上に柱を立てたカケ(作業場)や、密集した民家の間にトウヤ(細い通路)が発達する。これが海へ通じている。
隣の今富集落とともに、2012年に「天草市﨑津・今富の文化的景観」として国の重要文化的景観に指定され、このうち「天草の﨑津集落」が世界遺産となっている。
戦国時代、領主の天草氏は1566年に布教を許し、教会が建てられた。その後、キリシタン大名・小西行長が肥後南部を支配すると、天草氏は配下になり、秀吉の伴天連追放令後も宣教師を庇護した。禁教後、この地の潜伏キリシタンは島原天草の乱には加わらず、信仰を続ける。1805年、﨑津周辺で5,000人以上が摘発される「天草崩れ」が発生するが、「心得違いをしていた」とみなされて放免された。
1873年に信教の自由が黙認されると、カトリックへの復帰が始まる。現在の教会は1934年頃、ハルブ神父の時代に鉄川与助が設計施工した。木造で、正面の尖塔部分は鉄筋コンクリート、内部は畳敷きで祭壇はかつて絵踏みが行われていた位置に当る。背後の海に溶け込み「海の天主堂」とも呼ばれている。
白い大江天主堂
崎津教会から内陸へ30分ほど車で走ると、小高い丘の上に白い美しい教会が見えてくる。
大江天主堂は、キリスト教解禁後に天草で最も早く建てられた教会。現在の教会は昭和8年(1933)の建物だ。
「五足の靴」(*)と関わりのある教会。
ここは天草の空の青さと教会の白とのコントラスが美しい。天気がいい日は絶対に見に行きたい。限りなく透明に近いブルー。
天草は海の美しさは地中海に近い。アジアでありながら無国籍な魅力がある。「五足の靴」という高級ホテルもある。泊まったことはないが、天草ボタンが売っているので寄ったこはある。
大江天主堂
1873年に禁教の高札が撤去されてから、長崎・神ノ島の信徒西政吉が、大江村に入って潜伏していたキリシタンを発見し、カトリックに復活させたのがはじまりという教会。教会は、1931年にガルニエ神父が私財を投じて鉄川与助の設計・施工で建てた。「パアテルさん」と親しまれた神父に会いに、1907年、
北原白秋、与謝野鉄幹ら5人の若き詩人がたずねている。紀行文『五足の靴』の足跡のひとつ。
(*)「五足の靴」
明治40年(1907年)夏、東京新詩社の主宰の与謝野鉄幹とその門弟、北原白秋ら5人(与謝野寛(鉄幹)、北原白秋、平野万里、吉井勇、木下杢太郎)の詩人は、1ヶ月にわたる九州旅行を企画。世に言う紀行文が「五足の靴」
特に天草では、大江天主堂の司祭ガルニエ神父を訪ね、その宗教的雰囲気に深い衝撃を受け、白秋は2年後に「邪宗門」を出版。
他の4人も詩、短歌、キリシタン研究へと独自の境地を拓き、この旅を契機に近代文学史上不朽の作品を残した。