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しくじり男とユーロスター

仕事で失敗する
 まず始めに、ここでの話は仕事の失敗(しくじり)ではない。ここでは、人生の分岐点、起点となるイベントにおける勝負。受験や各種試験、タイトルを争うスポーツ、そんな人生を大きく左右する重要なイベントにおける失敗(しくじり)のことを書いている。

練習名人
 大谷翔平選手を見ていると、ここを逃したら後がないというチャンスで必ず結果を出す(しくじらない)。また、それとは別に静かに実績を積み重ねている。これも凄い話だ。

 私は30年近く通っていたスイミングスクールで若い選手を見続けていたけど、抜きんでる選手は、タイミングのいいときに活躍してスカウトされていく。ここはたいして有名でない支部のクラブだけど、オリンピック選手を数人だしている。最終的には大きなクラブ、大学の選手としてのエントリーだけど、小さい時にはここで泳いでいた。

 この子達、小さい頃は他の選手とたいして違わない。同じスイミングクラブに通っていた息子がオリンピックに出ているN君を見て、
「あいつ、5年生の時、俺の後ろ泳いでいたよ」と言う。
そんなものだ。何故か、そんな子は重要な時に勝つ。このタイミングで出ていけば更に上にいく。その通りになって階段を上がっていく。

 部活をやっていると分けるけど、練習名人が必ずいる。練習時は最高のパフォーマンスをするが、試合では全く生彩を欠く。チャンスにミスをする。
この要因としてメンタルが弱いだけなのか、運、普段の行いが悪いのか、私は分からないが、こうなると困る、つまり、これがしくじり男(女の人も含む)と言える。

勝負どころで勝つ(しくじらない)とどうなる
「勘違いされる」

 私がこの事に気づいたのは小学校5年生の時だ。
私は、死産で産まれて、心臓に強心剤を直接打ち甦生した。1度死んでいたことになる。
母親は、医師から「20才まで生きられるどうかで、運動などあまり無理をしないよう」と言われたそうだ。

私の幼少期の悲しみの記憶は、おそらく母親の気持ちを感じていたからかも知れない。

幼少期の記憶としてよく思いだすシーンがある。
夕刻の暗い和室、物音一つしない部屋で、布団を敷いて、一人きりで寝ている。天井を見つめる私の心には寂しさが広がっていた。これが一体何を意味しているのか未だに分からない。

男は二度死ぬ
 2021年、急性心筋梗塞に襲われて、私はマウンテンバイクを抱えて倒れた。病院へ救急搬送され処置されたが、その時、心臓が止まった。
。でも生きている。2度目の甦生となる。この奇蹟はNoteに投稿している。

ここからの話は、妻のラインから転記している。

 話は戻り、産まれた時の事情から、小学校入学時から私は体が小さく、もやしっ子だった。運動音痴ではなく、体力と運動の経験がなかったので、地元の農家のクソガキどもとは運動能力では雲泥の差があった。それでも、気が強いのと我慢強い性格から引き籠もりなどせずに、色々とチャレンジしていた。

 そして何故だか小学校5年生頃から、そんなガキどもにだんだんと太刀打ちできるようになった。何時も徒競走でブービー争いしをていた私が、運動会でリレーの選手となった。
「イケが!」と男子は信用していなかったが、リレーでは何とか3位をキープしてゴールした。

 昭和の小学校男子のヒエラルキーはまず運動能力で決まる。運動会の徒競走はそれが明白なるイベントだ。実は、この時期から私は体が大きくなっていた。一番の要因はそれだ。
そして、次のヒエラルキーは腕っ節だ。

 ここもチャンスが来た。同級生の1人が、家にあるボクシンググローブを学校に持ち込んだ。
「チャンピオン戦をやろうぜ!」腕っ節に自信があるガキらが、そんなことを言い出した。

 そして、放課後、図工室でトーナメントが始まった。いやだったが参加した。喧嘩が強いと言われる男子は嬉しそうだった。
即敗退だと思われた私だが、1回戦、2回戦と何故か勝った。準決勝、ここから腕っ節自慢らと当たる、だが意外にも互角だった。長引く試合、ここで先生が乱入してきた。
「お前達、なにやっている!」えらく怒られた。ボクシンググローブは没収され、持ち込んだ男子は親が呼ばれた。

その後の展開
 「イケ、喧嘩が強い」となっていた。私は人を殴る行為は好きではないので、その賛辞は無視していたが、その後事件が起こった。

 校庭の場所取りで、隣の組みの男子達と揉めた。そして喧嘩となり、代表戦となった。
「イケ、イケよ」
相手はそのクラスで一番背の高い子だった。
「クソ、はめられた」ここで逃げることは無理だ。私はやることにした。
私は取りあえず先手だと思って、腹を殴った。痛みで涙目になった相手が掴みかかってきた。それでも金蹴りをして離れた。さらに涙目だ。私も髪の毛がむしられた。
「誰か止めてくれ」

 ようやく女子が乱入してきてくれた。この頃の女子は真面目で本当に有り難い。取りあえず終わった。
「イケ、すごいなぁ」
私は気分が悪かった。
その夜、寝る前に、そいつの半泣きの顔が蘇って寝付きが悪かった。

 私はそんな喧嘩好きの人間でも運動能力が優れてもいない。偶然そうなっただけだ。なんとかくそれは分かっていた。しかし、勝負処で必ず勝つことが人生には重要だと薄々感じていた。

サッカーの勝負
 中学生、私はサッカー部へ入部した。当時はサッカーブームで、近所に私設のサッカークラブ、また有名処では読売サッカークラブなどが出来ていた。地元では野球のリトルリーグが強く、世界戦に出場してチャンピオンになったりしていたが、サッカーも盛んになっていた。

 サッカー未経験の私は最低線から部活を始めた。だからボールコントロールやリィフテングなどヘタだった。ただ足は速かったので、ダッシュ練などで、よくある1位なったら抜けるという練習では、一発目を勝負し、全開で走り抜け1位となった。
「反則だろう!」と残った皆は怒るが、それからは皆さん必死になり、大変なことになる。

 練習試合でもボールが転がったら、一番に走り寄り、ゴール前に上げた。または持ち込んだ。偶然チャンスとなり得点した。
先輩が「お前、使える」と言う。サッカーが上手くはないが、今で言うサイドバック要員となった。

かんちがい男
 高校生なると部活は辞めて、ホンダのCB750に乗って暴走族となり、妙な自信を付けた私。そして、どん底へ落ちる。
大学受験は実力通りに落ちまくった。上っ面だけの勉強ではどうにもならないことに気づいた。

 勉強の話はつまらないのでここまで、とにかく、ここで理解したのは、勉強する環境が大切だったということだ。
受験や勉強の勝負処はもっと前から始まっていた。それは中学校の選択からだった。さらに言えば民度だった。住む街も左右する。

しくじらない男
 この経験から「準備はじっくりして、そして勝負処で完璧にやる」
これを実行していた。それでも勝率は60%程度だった。その後のモトクロスレースでは圧倒的な才能と資金の差はどうにもならないと分かった。

大一番の勝負 
 人生一番の大勝負は、大手企業を辞めて起業したことだった。
44才の時だった。この時退職金で東京郊外の文教圏に一戸建てを買って、子育ても軌道に乗せた。
退職後、1年間、無収入(失業保険はもらった)で会社の基礎を作っていた。これは元会社のバックアップもあったから成功した。当時は仲間と自分を信じるしかなかった。

子供達へのアドバイス
そんな私から子供達へアドバイスしたことが以下だ。

1.敵を見極めろ。相手が1000人いても本当のライバルはその中の数人だ。
 受験で言えば、倍率が大きくても、その中で本当に争うライバルはそれほどいない。

2.勝つためには今できることを全力でやる。今更余計なことはしない。
  
3.負けたら、自分の日じゃなかったとして忘れる。
  運はある。
それとまずは、環境を無理矢理変える。

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ユーロスターに乗った
 ここから趣向がかわるけど書いちゃう

2004年9月、ロンドン - パリ間の直行列車のユーロスター (Eurostar) 高速鉄道に乗る。この頃は3時間位かかった。

始発駅
 イギリス側の始発駅は現在、ロンドンのセント・パンクラス駅である。
2004年当時、イギリス国内は在来線を走行し始発着駅にウォータールー駅(ウォータールー国際駅)を使用していた。そのため速度が遅い。
この在来線区間は第三軌条方式が採用されており、トンネル内で集電装置の切り替えが発生していた。

改札だ
ホームが低い

 これも2007年11月、イギリス国内の高速新線HS1(ハイスピード1、CTRL)が開業して解消、ロンドンと大陸の所要時間は数十分程度短縮された。両都市間を平均 2 時間 28 分まで短縮された。

旧ウォータールー国際駅改札口
 ロンドン・ウォータールー駅 (London Waterloo station) は、ロンドンのサウス・バンクに近いランベス特別区にある主要な複合ターミナル駅である。イギリス最大規模の鉄道駅であり、乗降客数も最大である。

 ほぼトンネルを走るユーロスター、食事とワインが出るので、私はチーズとワインを飲んでほとんど寝ていた。ワインとチーズとパンは美味い。それしか覚えていない。

パリ
 フランスはパリ駅で降りる。
「パリ着いたら、手荷物に気を付けてください。直ぐに盗まれます、スリも多いので注意してください」と言われる。
なんだかねぇ、ここは普通はこうだろう。
「ここが花の都パリです、芸術の街を楽しんでください」
紳士の街から泥棒の街へようこそと言うパリ人。フランスはやはりそんな国だった。

パリ駅
パリ駅
路線図

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