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「二十歳の献血」 別冊 ナナハン物語 

1976年8月、晴天
   
昭和51年だから昭和はこれから12年続く。
まだ地下に潜ってない調布駅を降りると、夏の日差しの中「二十歳の献血」の登り看板が目に入った。

 私は長崎に原爆が落とされた日に20歳の誕生日を迎えていた。そして大学受験に2回失敗していた。つまり浪人中の身だった。この年の1月にあった成人式には出席していない。人生のどん底見たな気分だった。

 寝不足とタバコの吸いすぎで体調は悪い、精神状態はさらに悪い、狂う一歩手間まで来ていた。
「二十歳の献血ね、たまにはいいか」
私は何かを変えたいという思いでその献血バスへ足を向けた。

 バスに隣接するテントでの問診後、献血バスに入る。
先客がいた。角刈り、板前風の若い男がベッドにいた。そいつの顔は見覚えがあった。
相手も気づいた。血を採られながらその男が言う。
「あれ、お前か」
「久しぶり」

 この男は双子の伏見兄弟のどちらかだ。首に傷がないから兄のマサルの方だろう。弟はススムという。
マサルと思われる男が言う。
「懐かしいな、ナナハン、まだ乗っている?」
「家にあるよ」
「そうか、俺はもう乗ってない、寿司屋で修行中だよ」
マサルは注射を打ってない右手を軽く振り、
「バイク事故で多量の輸血を受けた時、医者に元気になったら必ず献血しろと約束させられた。だから今日もお勤めだ」と言う。
「事故って、あの事故か」

 私はその事故を思い出した。ルート20の仙川の交差点、直進していたマサルの乗るナナハンが右折する車と衝突した。かなりのスピードで車に衝突したナナハンはフレームが折れ曲がった。
マサルは道路に飛ばされ、顎から始まり、体中の骨を折った。「再起不能」そんな凄い事故だ。

 「もう大丈夫なのか?」私は訊いた。
「右足がまだ上手く動かない、それ以外は治ったよ」
マサルの献血が終わった。背が高いこの男は車の中で身体を縮めて、私の肩に手を置いた。
「こんど、寿司おごるぜ」
調布にある店の名前を言うと軽く右手を振り、振り向かないでバスから出て行った。
その背中を見て、私はやるべき未来があるマサルが羨ましかった。
まだ何にも決まっていない私、流石に2浪目の重圧は精神を蝕んでいた。

 伏見兄弟とは幼馴染みだった。お袋が言うには、兄弟の親はバリバリの共産党員だそうだ。記憶では彼らの親父を見たことがなかった。私が小学校1年の時、兄弟は引っ越した。通う学区が違ったので、それからは疎遠となっていた。

 その後、伏見兄弟の噂を聞いたのは私が高1の時だった。調布にナナハン乗った怖い双子がいる。それが伏見兄弟だった。弟のススムは体中に縫い傷がある。ヤクザと刃物でやりあった傷だと言われている。
二人の彼女はハーフのモデルだとも言われていた。当時はSNSもないので、口伝えの話は伝説になっていた。

 実際の話、ススムの傷は、中学の時、無免許で原付乗って畑の鉄条網に突っ込み、それで負った怪我だ。
ハーフの彼女がいるのは事実で、この女の子も双子だ。私は一度見たことがある。可愛かった。別れたのかなぁ、まあどうでもいい。

 その頃一度出会ったことがある。
私がナナハン(ホンダCB750K2)に乗って世田谷通りを走っていた時だ。信号待ちしているときに、兄弟と出会った。二人乗りしたホンダのナナハンに乗っていた。
バイクは完璧な暴走族仕様だった。
「どこ?」と訊かれたので、バイクに貼っているチームスッテッカーを指さす。
「ほーっ、やるじゃない」と言うと猛スピードで加速して消えていった。

 そんな事を思いつつ貧血気味になったが献血が終わった。少し立ち眩みがする。
「さて、家に帰って勉強でもするか・・」
憂鬱な「二十歳の献血」を終えた。

 兄弟ともこの出会い以降一度も会ってない。今では顔も思いださない。生きいてるのか死んでいるのか、つまり縁が無かったのだろう。
それでも、あの夏の日の情景と私の羨望の気持ちは覚えている。

 高校の同級生から二十歳の頃の同窓会と雑誌記事の写真をSNSで送ってきた。

この中の4人と今年新年会をやって生存確認する
1970年代のバイク、自動車文化

 大学進学後、鈍った身体を鍛え直した。タバコも止めた。 
私はその後、モトクロスレースに全ての情熱を傾けた。

1982年 桶川、セーフティーパーク埼玉
1984年 このシーズンで引退した

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