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私の暦2 半導体プラント、結婚する

流れ者軍団
新年度に私は転勤した。そこは新しく立ち上げられた半導体推進部。
半導体プラントなどを仕事とする推進部として新設され、結果が出なければ解散する。結果がでれば事業部となる。そんな条件付きの部署だった。
順調にいけばいいが、安定した事業部(組織)からはそんな部署に精鋭を送り込まない。また手を挙げる者もいない。大企業では既得権のある事業部が給料も良いし出世も早い。

そんなことで集まって来たのは、各事業部や親会社で、少し、いや大変扱い難い者達となる。
この中に後の私の妻になる女の子もいた。一見そうは見えないが、後で聞くと結構やらかしていた。
どうなることやらと思ったが、時代はイケイケの1980年後半、会社の全体の業績はどんどんと伸びる。そして新しいビルに事業所が移った。
エントランスが豪華だ。受付がいる。トイレが綺麗だ。1階にトンカツ屋がある。本屋もある。歯医者もある。なんとオフィスの窓が大きい。川崎の夜景が綺麗だった。

自由だ!
私も入社7年目、神経質な上司もいない。
早速トライアスロンの練習を仕事中に入れ込んだ。まず会社までの25キロ、往復50キロの自転車(ロードバイク)での通勤を始めた。
自転車は大切なので、エレベーターで部署のある23階に運び込み、広めのロッカールームに置いた。
早速クレームが来たが、これ50万しますから盗まれたどうしますか?と脅す。今思うと、アホ相手に上司も諦めたのだろう。

昼休みは、社食があるので食事の心配はない。ぎりぎりまで近場の多摩川の河川敷をランニングする。
夏場にランパンとランシャツでエレベーターに乗ったら、他部署の女子社員が「きぁーっ!」と悲鳴を上げた。
「やばい、やばい」非常階段を使うことにした。

ある日、課長から呼び出された。
「あのさぁ、クレームが来ているよ、臭いから止めて」と笑ってい言うが目は笑ってない。実は練習後、ロッカー室に汗まみれのシャツ類を干していたのだ。それは臭いだろう。部室と勘違いしていた。
私は練習後のウエアはビニール袋に入れて持ち帰ることにした。

新入社員も入ってきた
なんとバブルの影響というより半導体バブルで、順調な売り上げだ。新入社員も配属されてきた。
それまで直属の後輩を持ったことがなかったが、5才以上下の後輩が入ってきた。その後も後輩は増えていった。
運動部出身の後輩達は直ぐに私と当時の私の彼女(現妻)にうちとけた。
この中に同じ大学で同じ研究室の後輩がいた。彼はアウトドアが好きでカヤックも持っていた。

キャンプへ行く
早速その夏、この同じ大学卒の彼を中心として後輩3人と本栖湖へオートキャンプに行く計画を立てた。その後、2年程後輩の異常なノリをする男達2人とバイク好きの同期1人も一緒に行くことになった。
カヤックを持っている後輩はMTBも愛車カリブで運んで来た。異常なノリをする髭を蓄えた後輩は、ウインドサーフィンを車に積んで真夜中に現れた。

このキャンプ中、カヤック2艇、MTB1台、ウインドサーフィンなどなどの当時はまだまだ珍しいものを持ち込んでのキャンプスタイル。それが目立ったのか、たまたまキャンプ場を訪れていたアウトドア雑誌の方に取材された。
後日、雑誌に写真と記事が掲載された。

その後、春は花見、5月は河原でBBQ、冬は車でスキー三昧という、色々なイベントを後輩達と開催した。
トライアスロンの方もアイアンマンレースに2度出場できた。記録も延びて絶好調であった。
この遊びまくっていた時期に私は結婚した。結婚式はトライアスロン仲間や後輩達、高校の同期、大学の友達も集まって翌朝まで大騒ぎであった。

今思うと、これが私のサラリーマン人生の1回目のピークだった。

社内旅行
社内旅行の幹事を妻と一緒にすることになる。手足となる後輩も沢山いる。
管理職のおっさん連中には温泉、我々はスキーをする。となると季節は冬。場所は草津温泉スキー場とした。バスを1台チャーターして、金曜日、会社の前から夜中に出発した。車内泊をして、温泉付きのホテルに1泊、スキーは2日間滑った。

バスは大型1台分なので、まだ空きがあった。妻が同級生の女の子を呼びたいというので、女性は多い方がいいと思いOKした。面倒臭いので上司には相談はなかった。
この同級生は全て違う会社の女子だが大丈夫だろう。
若手は20代の女子が合計8人となり、大いに盛り上がる。おっさん(役職者)も何故かテンションが上がる。宴会の最中、
「君達はどこの部署なの?」とかニコニコして聞いて役職者がいた。
「友達なんです」それで間違いない。
私は詳しい説明は省いた。彼女達も一応義務として、宴会でお酌もし、芸もして、おっさん達を大いに喜ばせてくれた。

スキーは皆さんそれなりに出来た

その後、夏には伊豆高原のペンションを借りて、釣り船をチャーターして海釣り、若手はテニスという社内旅行も実施した。
この時期に身につけた旅行代理店並のノウハウは、後に別会社で主催した海外や国内の教育施設の視察旅行に生かされるのだった。

しっかり仕事もする
遊んでばかりの様に見えるが、仕事は、私も含めて半導体工場ラインの設計に携わり、電気、空調、ガス供給などの設備設計をする。幾つか特許も取っている。さらに現場管理のために1級施工管理技士の取得もしていた。
また先駆けて設計図面のCAD化も進めていた。

このように現場実務のスキルを皆さん高めていた。
とにかく、若さにまかせて仕事と遊びに突き進んでいた。
パワハラもセクハラもコンプライアンスも何処吹く風、そんな時代であった。
私は個人的にトライアスロン選手としてのピークではあったが、子供が3人となり、家庭中心の生活になっていく。

会社組織の崩壊
そんな時代は永遠に続かない。
日本は徐々に台湾、韓国に半導体製造が食われ出した。没落の日本の半導体製造。
21世紀に入り、米国の情報システムによる構造改革と復権、中国、アジアのの台頭により、日本の古い組織の低迷は続き。
会社も血迷った経営者達が、組織の断末魔的な統廃合を繰り返す。
一時期私は一体どこの部署にいるか、また目標もわからない状況になっていた。
そしてリストラが始まった。
私は行く末に不安を感じ、条件の良い時期に早期退職をする。
3人の子持ちで、家のローンもある私、日本という国の没落の波をどう切り抜けるか、今度は仕事での波瀾万丈が待ち受けていた。
続く


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