私が死にたいと思わなくなった日⑦
こんにちは。おむすびころもです❁⃘
このシリーズもなんと⑦まで来ました!
前々回多分⑦で終わると言ったのですが、全然ですね。
⑩までいくんじゃないかと思います…
長いですが、どうぞ最後までお付き合いくださいませ*(◜ᴗ◝ )*
それでは前回までのお話のURLを貼っておきます。
↓前回のお話↓
↓まとめて読めるマガジン↓
それでは今回のお話に入ります。𓂃𓇢
準備
私はいつの間にか眠っていて、目を覚ますと2、3時間ほど経っていました。
全部夢だったのか?
そう思いましたが、別の自分がちゃんと、現実だということを教えてくれます。
家はシーンと静まり返っていたので、恐らく私一人でしょう。
家族はきっと、自分の勤め先や葬儀屋に電話をしているのだと思います。
私は泣きすぎて鼻水が止まらなくなったので、ティッシュを探しに1階に降りました。
すると、おじさん(父の兄)がリビングで座っていました。
まさか人がいると思わなかったので、すぐに鼻を手で抑え、そそくさと階段を降り、ティッシュを探しました。
おじさんは少し心配そうにこちらを見ていましたが、特に何も言いませんでした。
鼻をスッキリかんで、私も大学の授業の欠席について、メールを送ることにしました。
まず教授にメールをし、授業のインスペクターの友達にもLINEを送りました。
友達には「忌引」とは言わず、「家の都合で」と伝えました。
変に気を使われるのが嫌だったからです。
どうせ後で事務に忌引届けを出すので、これでいいやと送信しました。
姉は準備出来次第家に帰ってくるそうです。
結局姉は、祖母に会うことができませんでした。
心の中でずっと思っていました。
私だったらすぐにでも帰る。
もう誰かの知らせで人の死を知りたくない。
でも、今回祖母を看取って分かりました。
看取ることがどれだけ辛くて苦しいか。
現実を突きつけられ、どこにも逃げられず、ただ死を受け入れることしかできない。
そんな考えが私の中に産まれました。
しばらくすると、家族が帰ってきて、そして祖母も我が家に帰ってきました。
祖母が住んでいた家は、今は別の人に貸しているので、私の家に帰ってきたのです。
和室に布団や枕飾りなどが準備され、祖母はそこに横になりました。
今回のお葬式でお呼びしたお坊さんが和室に入り、祖母の戒名(仏弟子となった証として与えられる名前)の候補を見せてくれました。
父は私と兄で決めろと言いましたが、兄は私に決めるように言いました。
祖父の戒名は兄が決めたので、祖母の時は私に気を使ってくれたのでしょう。
戒名は「院号」「道号」「戒名」とあり、それぞれ3つずつ候補がありました。
全ての候補の意味を説明してくれましたが、どれもとても良い意味で、心を込めて考えてくださったのだなと思いました。
「院号」「道号」はすぐに決まりましたが、最後の「戒名」の候補2つで悩みました。
具体的には書きませんが、どちらにも祖母の名前の漢字一文字が入っていて、「音楽」を意味するものと、「栄光」を意味するものでした。
祖母は幼稚園の先生だったこともあり、音楽が大好きな人でした。
だから「音楽」の方が良いかなと思いましたが、「道号」が「子供たちと楽しく遊ぶ」というような意味なので、「栄光」の方が良いかもしれない…と悩みました。
私がずっとあれこれと悩んでいた時に、兄が言いました。
でも最後はお前が決めていいんだよと、最後に付け加えました。
私は兄の意見にすっかり納得しました。
それに、祖母を誇らしく思っているのは私達もです。
そう思い、祖母を讃えるという意味でも、「栄光」を意味する方を選びました。
祖母の戒名の意味を簡単に書くと、
静かな優しさを持つ
子供たちと楽しく遊ぶ
栄光ある人
まさに祖母にピッタリの戒名だなと思いました。
優しい笑顔で子供たちと楽しそうに遊んでいる祖母が目に浮かびました。
兄も父も、凄く良い名前だと言ってくれました。
祖母は喜んでくれているでしょうか。
「栄光ある人」なんて私が言うものだから、恥ずかしがっているかもしれません。
しかしこれが、私から祖母へできる、せめてもの感謝なのです。
家族が揃う日
姉が帰ってきました。
姉は和室に行き、祖母に会いました。
私は戒名の話をした後、和室をそっと離れました。
姉は祖母と2人で話したいと思ったからです。
大人達は相変わらず忙しそうにしており、私はただ家でぼーっとしていました。
お通夜は明日、そして葬儀は明後日に決まり、人数も親族と祖母のご近所さんなどに絞りました。
と父は言いましたが、姉は東京から来ているし、私も県外からなので、人数制限は仕方がない事でした。
その日の夜は、久しぶりに家族が揃いました。
こうやって家族全員、同じ食卓を囲むのはいつぶりでしょうか。
コロナウイルスが日本に広がってからは、もう暫く家族が揃うことはないとおもっていました。
祖母が私たちを引き合わせてくれたのでしょうか。
その日の夜は、祖母の遺影に使った写真が入ったアルバムを見たりして過ごしました。
アルバムの祖母は、赤ちゃんだった私を、とても大切そうに抱っこしてくれていたり、笑顔で私の顔を見てくれていたりしていました。
私の記憶にない時から、祖母は私を大切にしてくれていたんだ。
また涙が込み上げてきました。
祖母も家族です。大切な家族の1人です。
この日は、私たち家族が過ごす、最後の日になりました。
お別れ
翌日、お通夜の時間の前に祖母は葬儀場に行き、私達も準備をして向かいました。
お通夜では懐かしい祖母のご近所さんや、いとこや親戚と会いました。
と、ご近所さんは私に笑顔で言ってくれました。
ご近所さん達には本当に久しぶりに会いました。
小さい頃は祖母の家に住んでいたので、よくお世話になっていた方々です。
皆さん年を取っていたものの、あの頃と変わらない笑顔のままでした。
そして親戚にも久しぶりに会いました。
葬儀はいつも辛いですが、唯一嬉しいのは親戚みんなに会えることです。
お通夜は滞りなく終わり、私たちは祖母に「また明日」と言い、家に帰りました。
明日はお葬式です。
私は夜、部屋で1人祖母に手紙を書くことにしました。
その内容は、祖父(父方)への懺悔。そして祖母に歌を聞かせられなかった後悔で溢れていました。
祖父への懺悔。
私は祖父が入院してから1度もお見舞いにいかなかったのです。
祖父のことが嫌いという訳ではありません。
しかし、当時大学受験を控えていたということもあり、心に余裕がなかった私は、まだ大丈夫だろうと病院に行くのを後回しにしていました。
その事がずっと心残りで、祖父が死んでから、私はとんでもないことをしてしまったとずっと後悔していました。
こんなことを書いても何も意味が無いと思います。
しかし書かずには居られませんでした。
手紙は6枚に続きました。
全然纏まっていない、涙でくしゃくしゃな手紙が出来上がりました。
なんだか久しぶりに祖母と会話をしたような気持ちになりました。
どうか祖母が読んでくれますようにと祈り、封を閉じました。
そして翌日。お葬式。
朝葬儀場に行き、祖母が天国に持っていくカバンの中に手紙を入れました。
葬儀が始まり、お坊さんの読み上げる中には、時々祖母の戒名が出てきました。
やっぱり、祖母にぴったりな名前です。
優しかった祖母。面白かった祖母。歌が上手かった祖母。
一緒に歌をたくさん歌いました。
一緒にテレビを見ました。
一緒に料理をしました。
認知症になってからは昔のように会話は出来ませんでしたが、祖母の足をマッサージしたり、一緒にお風呂に入ったり、家に泊まったり。
入院してからは、アルバムを持って行って見せたり、祖母の帽子を持って行って被せてあげたり、お正月に入院食で祖母の好物のカニがでて「良かったね」と言ったり。
会話が出来なくなってからは、それでも話しかけて、帰る時には握手をして、その握手の力が私よりも強くてみんなで笑ったり。
そんな祖母と、お別れの時が来ました。
みんなで祖母の棺桶に集まり、涙と共にお花を添え、最後のお別れをしました。
火葬場には私の家といとこの家、計10人のみで行きました。
火葬炉に入る時は、何度味わっても嫌なものです。
初めて曾祖母とお別れをした時は、あまり実感がありませんでしたが、2回目、祖父(母方)とのお別れの時は、もう形が無くなるんだと分かっていたので、父にすがりつき大泣きしたのを覚えています。
今は誰かにすがって大泣きするような年齢ではありませんが、心の中で誰かにすがっていました。
抱きついて顔を埋めて、わんわん泣いていました。
あなたの孫で良かった。あなたに出会えて良かった。
生まれてきて良かった。
そして、もうあなたに会いたいです。
最後に
今回はここまでです。
そして次回から、やっと、やっとタイトルに近づきます!!!
今回の写真は前回に引き続きプランターですが、、、
なんと芽が出ています!!
こちらは今年の5月、実家で植えたコスモスの赤ちゃんです🌱
発芽した時は本当に嬉しかったです。
これについても、お話の中で書きたいなと思っています!
それでは今回はこのあたりで。
また次回でお会いしましょう❁⃘*.゚
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