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私が死にたいと思わなくなった日③

こんにちは。おむすびころもです。

だいぶお待たせしましたが、このシリーズも③まできました。

このペースだと、もう少し続くと思いますが、どうぞ最後まで見ていただけると嬉しいです。

さて、今回の③を読むにあたり、まだ①と②を読んでいない方がいましたら、URLを貼っておくので是非こちらもご覧ください。

さて前回まで、約1年前の話を書いていたのですが、今回は私の祖母について、昔に遡って詳しく書こうかなと思います。

思えば祖母のことをちゃんと書かずにお話を進めてたなと思い、それだと理解できないところもあったかと思います、、すみません😭

祖母と私

私は赤ちゃんの頃から祖母と一緒に暮らしていました。

両親が共働きだったので、平日は一緒に買い物に行ったり家で遊んだり、幼稚園に通うようになると送り迎えをしてくれていました。

姉と兄はもう小学生だったので帰りも遅いですし、放課後は友達と遊ぶのでなかなか相手にはしてもらえませんでした。

なので、祖母との記憶がとても強く残っています。

私が小学校に入学する少し前、引越しをしたため祖母とは離れて暮らすことになりましたが、両親が帰宅する夕方までは祖母の家にいました。

祖母はとっても優しい人でした。
いつもニコニコ笑っていました。

祖母は歌うことが大好きでした。
なので、私によく歌を聴かせてくれました。

祖母の化粧室があったのですが、そこで祖母とよく一緒に歌を歌ったことを今でも覚えています。

幼い頃から人見知りで、幼稚園にもすぐに馴染めなかった私は、祖母との時間が本当に幸せでした。

祖母に沢山のことを教わりましたし、沢山の愛を与えてもらいました。

1つ、私の記憶に強く残っていることを話します。

私が家族と遊園地に行った時のことです。

遊園地のオブジェの前で母に写真を撮ってもらいました。

そのオブジェは足を揃え、両腕は横にピンと伸ばしていたので、私は同じポーズをしました。

家に帰ってその写真を祖母に見せた時、祖母は私のことを姿勢が綺麗とすごく褒めてくれました。

足もちゃんと揃ってるし、指先も真っ直ぐで、とっても綺麗ね。

私はとても嬉しくて、その祖母の言葉が今でも忘れられません。

それから写真を撮る時や、それ以外にも舞台に出る時はいつも、つま先や指の先まで綺麗に揃えることを意識するようになりました。

祖母は幼い私にも、子供に話しかける感じではなく、人として話しかけていた気がします。

褒め方も小さい子供だから褒めるのではなくて、本当に心から凄いと思って褒めている。今思うとそんな風に感じます。

だからこそ、私は祖母と一緒にいる時間が好きだったんだと思います。

変化

今思えば、祖母が変わったのは私が小学校高学年の頃からだと思います。

最初はちょっとした物忘れから。

いつものニコニコ笑顔は絶えませんが、話しをする時に少しの違和感がありました。

妙に私にお小遣いをくれるのです。

最初は嬉しくてそのまま貰っていましたが、だんだんおかしいと思い、お金は父に渡すようにしていました。

私が中学生になると、両親は確信していました。

認知症

幻聴や幻覚も激しくなり、夜中に外に出ることもありました。

私は、見えないものを見えるという祖母にどう対応して良いか分からず、そんなものはいないよと言うことしかできませんでした。

祖母のことは大好きなのに、祖母と接するのが怖い。

私が高校に進学して、祖母は骨折が原因で入院することになりました。

私は入院後、初めて1人でお見舞いに行きました。

おばあちゃん元気にしてるかなぁ。
高校での出来事沢山話したいなぁ。

そんなことを考えながら病室に入りました。
すると

ミホちゃん!よく来たなぁ!

祖母は私の顔を見て、とても元気にそう言いました。

私の名前は「ミホ」ではありません。
しかし、祖母は私を「ミホちゃん」と呼んだのです。

凍りつく身体を何とか動かし、ベッドの隣の椅子に座りました。

最初は名前を訂正しましたが、祖母は「ミホちゃん」と言い張りました。

私は「ミホちゃん」で通すことにしました。

話しを終えて帰る時、

自転車や車に気をつけるんだよ!

と、祖母は言いました。

これは認知症になる前から、私によく言っていた言葉です。

私は分からなくなりました。
目の前にいる人は本当に祖母なのか、祖母じゃないのか。

昔と変わらない言葉をくれるけど、私の名前を覚えていない。

帰り道、名前を間違われたショックで呆然としていました。

もう私は、祖母に名前を呼んでもらえないのだろうか。
いや、祖母はもう私のことを忘れてしまったのではないか。
虚しい心を抱えながら、私は帰路に着きました。

希望と…

それから祖母はどんどん衰弱し、寝たきり状態になりました。

言葉も「あー」や「うん」など簡単な言葉しか話せなくなりました。

私は県外の大学に行き、祖母に会えるのは長期休みの時だけです。

両親も共働きなので、頻繁にお見舞いには行けませんでした。

そんな時、介護施設に空きが出たので、祖母はそこに行くことになりました。

介護施設では毎日歌やゲームなどのイベントがあり、祖母もその輪の中に入っていたそうです。

祖母は歌うことや手を動かすことは出来ませんが、周りの歌声や、話しかけてもらうのが良かったのか、どんどん顔色が良くなりました。

肌はツヤが出てとても綺麗でしたし、顔もふっくらとして顔色も良くなりました。

歌が大好きな祖母。この介護施設での日々は、祖母にとってとても良い環境だったのだと思います。

この施設で歌を歌おう。そして、祖母に私の歌を聴いてもらおう。

私はそう心に決めました。

そうしたら祖母の体調が良くなり、私のことをまた思い出すのではないか。

私の心には僅かな希望が生まれました。

しかしそれから2年弱経ち、日本にコロナウイルスが上陸したのです。

コロナが流行りだした時、介護施設での演奏会は勿論、お見舞いすら禁止になりました。

そして暫くして、姉から祖母の肺炎の連絡があったのです。

最後に

今回は祖母について書かせていただきました。

ここから話は①に戻ります。

因みに祖母はコロナウイルスではありませんでした。

祖母は本っ当にとっても優しくて、とっても素晴らしい人間です。
私の自慢の祖母です。

その事が伝われば、それだけで嬉しいです。

それでは次回から時間軸は戻り、お見舞い後の話に戻ります。

それでは、最後までご覧頂きありがとうございました。

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