『花と負け組』ver2019 序
なんとなく思い出したし、備忘録的に書いておく。一瞬で終わる文章だ。
ぼくは5月21日、最新作となる長編小説『花と負け組』をイベントで頒布し、現在も通販で販売している。
読んでいただいた読者の方々からも感想が届きはじめていて、嬉しく思っている今日この頃だが、思い返せばこの作品、構想を練りはじめたのは2019年のことだった。
『花と負け組』は横浜、とくに関内、桜木町、といった観光地が舞台となる作品だ。この作品を書こうと考え付いたのも、ぼくが関内を歩いているときに「負け組」というプロジェクション・マッピングチームがいたら、なんだか響きがよくていいな、と思ったことが発端になる。
その前からひとつの建築物を巡る話を書きたいと思っていた。ほかにも「光」というモチーフをいかにして作品に落とし込むのかを思案し、歴史的事象を扱いつつ現在を生きる自分たちにとって、生きる上で、死者を見送る上で重要なメッセージを叫べるようなものを作りたい、という欲望も持っていた。
それらが結実したのが、『花と負け組』という作品だ。現時点では、ここが到達点だ。
さて、2019年に構想を練ったといっても、刊行したのは2023年だ。この間にべつの長編を書くなどをしていたので遅れた、ともいえるのだが、実際のところは一度書いた『花と負け組』は執筆途中で頓挫して、完成原稿には1文字も活かされてはいない。
違っている点はいくつもあるが、いちおうネタバレを避けておくために肝心なことは書かないでおく。きっと時期がくれば書くとは思うが。
ぼくが最近思い出したのは、2019年の『花と負け組』は、主人公の名前が「ハルアキ」ではなく「セイラン」だったことだ。
現在の「ハルアキ」は孔子の『春秋』からとっていて、「時、歴史」という意味を込めてつけている。ぼくはこのネーミングはかなり気に入っていて、これしかないだろうと今も画面を見ながら頷いている。
一方「セイラン」はどうだろう。なぜこの名前をつけたのかというと、単純に「エモい感じ」がしていいなと思ったからだ。
『花と負け組』というタイトルだって、もちろんそういう狙いがないとは言えないのだが、いま思うと主人公までその観点でつけていったら、なんというか、魂が入っていない気がしてしまう。
2019年のぼくは自分の抱いている違和感に気が付かず、なんとなくやる気がなくなって数万文字書いた原稿を放り投げてしまった。いつか書こう、とだけ言い残して。
主人公というものは大切だ。書き手にとって好きなやつでいる必要はないが、少なくとも書き手にとって「回転」させ甲斐のあるやつでなくてはならない。とぼくは思う。
ぼくは「セイラン」にあまり関心が持てなかった。しかし、「ハルアキ」にはなかなか興味が出た。
エモいだけの話はどうでもいいが、鈍重な時間や意味について、有意義かどうか疑ってしまうような悩みを抱えているやつの話は、聞く価値がある。
ぐるぐると関内の街を歩き回るハルアキは、読者の方にはどう思われたのだろうか。めんどくさいやつではあるが、話くらいは聞いておくかと思ってもらえただろうか。
物語という言葉が好きだ。「ものをかたる」。
原初にある、人の話を聞くという行為のおもしろさを、ぼくは知っているし、それを他者にも与えたい。
2019年の『花と負け組』に欠けていたのは他者だった。思い返すと納得できるのだが、今日は仕事に行く前に思いつきで書いたので、読みたい人がみんな読んだあたりで、その話はもっと突っ込んでできればいいと思う。
というわけで、行ってきます。
みなさん、お幸せに。
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