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メディアの自由と責任・後編(金明秀)

■新潮社を事例として
【事実上の虚偽報道】
メディアの自由と責任・前編で見たように、ハッチンス委員会の『自由で責任あるプレス』は、メディアの社会的責任として上述の5項目を提案した。なかでも筆頭に挙げているのが「ウソをつかない」ということだ。とりわけ外交にかかわる報道が不正確だと、戦争などの重大な問題にもつながりかねないためだ。また、単に事実を報道するだけでも十分ではない。文脈から離れて断片的な事実をつなぎ合わせただけでは、真実とはまるで異なる理解へと読者をミスリードすることができるためだ。それは、事実上のウソに他ならない。したがって、正確な文脈の中で、誠実に、包括的に、知的に、できごとの意味を説明することが強く求められている。
日本でも、新聞やテレビ・ラジオ放送であれば、虚偽報道は社会的に強い非難の対象となってきた。とくに1980年代後半に「やらせ」が社会問題になってからは、取材者の意思で演出したことがらをあたかも事実であるかのように報じることは最大級の禁忌とされてきた。だが、新聞、テレビ・ラジオ以外のメディアはどうだろう。
具体例として以下に取り上げる新潮社発行の雑誌記事でも、さすがに完全な無から虚偽をでっち上げたことが誰の目にも明らかな形で証明された虚偽報道は見当たらない。なぜなら、でっちあげが疑われる個所はすべて匿名コメントであり、その真偽を検証するためには取材源を開示せざるをえないが、「取材源の秘密は、取材の自由を確保するために必要なものとして、重要な社会的価値を有する」(最高裁判所大法廷昭和44年(し)68)とみなされているためだ。したがって真相を突き止めることは非常に困難ではあるが、かりに、「取材源の秘匿」というジャーナリスト最高の倫理の一つともいわれる規範を悪用して、「ウソをつかない」という別のジャーナリスト最高の倫理を意図的に犯しているとすれば、二重に卑劣な悪徳というほかないだろう。
一方、ハッチンス委員会が指摘するところの「事実上のウソ」については比較的、容易に検証することができる。事実上のウソとは、文脈から切り離した断片的な事実をつなぎ合わせることによって真実とはまるで異なる理解へと読者をミスリードすることを指すが、そういう箇所が含まれているかどうかは、記事を丹念に読んだり、事実関係を調査するだけでわかる。以下の事例に、そうした「事実上のウソ」が含まれていることがわかる。
たとえば、【事例1】は有名な「『パルチザン伝説』事件」の発端となった記事だ。

【事例1】週刊新潮1983年10月6日号

『パルチザン伝説』は左翼運動家を題材に挫折の美学を描出しようとした小説だが、作中にお召列車を爆破する計画が失敗するエピソードが含まれていることを捉えて、『週刊新潮』は「天皇暗殺」を扱った小説だと不穏な論調で取り上げた。しかも、「皇太子殿下や美智子妃殿下が首を斬られ、その首がスッテンコロコロと転がるという情景が繰り広げられる」という『風流夢譚』と並べて、「勇敢にも……タブーを破って見せた」などと皮肉っている。
断片を切り取ってラベリングすることで真実とはまったく異なる印象へと誘導するこの記事のやり口に対して、作者の桐山襲は「この週刊誌の流儀に従えば、『源氏物語』などは、さしずめ『天皇家の姦通を扱った小説』という具合いになってしまうことでしょう」と喩えている。もっともな指摘だ。あるいは、『レ・ミゼラブル』を「多数の犯罪歴をもつ40代の男が人望あつい司祭から強盗を働く不敬な小説だ。神を冒涜するタブーに挑んだようなもので、キリスト教原理主義者の襲撃も予想される」などと紹介する者がいれば知性を疑われておしまいだろう。
だが、既読者の多い『源氏物語』や『レ・ミゼラブル』とは異なり、『パルチザン伝説』は文藝賞に応募された新人の未発表作品であったため、こうした印象操作の手法が疑われることなく奏功してしまい、【事例1】の発売当日から『文藝』を発行する河出書房新社に右翼団体が襲来することとなった。
【事例2】は水俣病の未認定被害者を「ニセ」水俣病患者などと誹謗した記事だ。同記事中のどこに「事実上のウソ」が含まれているかを解説する前に、水俣病の救済をめぐる経緯を簡単に整理しておこう。水俣病が「公害」と認定されてからすでに半世紀以上が経過しているが、いまだに裁判が係争中であるなど最終決着に至ったとはいいがたく、記事の背景がいささか複雑なためだ。

【事例2】週刊新潮1995年11月16日号

「水俣病公式認定患者第1号」とされているのは、1956年3月15日に死亡した、当時5歳の女児である。50年代末ごろまでには水俣病の原因物質と発生源が明らかになっていたが、当時は「公害」という社会問題が認知されていなかったため、原因企業、国、自治体すべてが初期対応を怠り、抜本的な対策を取らないままずるずると被害を拡大させた。政府が発病と工場廃水の因果関係を認めて「公害」と認定したのはやっと1968年のことである。
水俣病と認定された患者には、症状に応じて1600~1800万円の一時金が支出されるなど正式に救済・補償の道が開かれたが、認定審査会の判断基準はあまりに厳しく、症状が相対的に軽い大量の被害者が救済の対象から取りこぼされることになった。被害認定を絞った最大の理由は、一時金や年金、医療費の支払いを担うはずの原因企業が巨額の補償により経営破綻に陥っていたため、行政が間接的に介入する形で患者数を抑制せざるをえなかったということだとされている。
申請を棄却された大量の未認定被害者らはこの状況に納得するはずもなく、各地で裁判を提起するに至ったが、国は裁判所の和解勧告に応じず、事態は膠着したまま長期化していた。そこに変化が訪れたのは、1994年に日本社会党委員長を首班とする村山内閣が誕生してからだ。同内閣は裁判所の和解勧告に準じる解決に向けて動き始めたが、最終的には省庁の抵抗に屈して、1995年9月末に、患者認定をともなわない低額(一律260万円)の一時金支出という政治決着が行われることとなった——以上が、【事例2】の背景である。
創刊から一貫して保守路線をとってきた『週刊新潮』としては、この政治決着を利用して村山内閣を攻撃しようとしたものだと思われる。しかしその内容は、補償が不十分だというものではなく、逆に、未認定被害者を「ニセ」患者扱いすることだった。
【事例2】では、「ニセ」患者であるかのように読者を誘導するために、故人や匿名の関係者から未認定被害者の不正を語らせるという手法が用いられている。前述したように、「取材源の秘匿」原則からいって、そうした証言そのものがねつ造されたものかどうかを検証することはむずかしいが、それらがどこまで客観的な事実を反映したもっともな内容なのかを検証することは可能である。
 たとえば、「水俣病被害者・弁護団全国連絡会議」(全国連)は「東京や大阪、京都といった県外での申請者をどんどん増やしていきました」という証言がある。それ自体は間違いではなく、全国連は公害物質を摂取した後で大都市圏に集団就職した人たちや、水俣病患者への差別や中傷を避けるために他県に住居を移転した人たちも原告団に取り込んでおり、未認定原告約2000名という規模の面から水俣病未認定被害者を代表すると目されていた組織である。
しかし、この事実が、「どう考えても魚を食べていない人なのに申請者に名を連ねているなんて人が結構いるんです」という匿名コメントの文脈の中で記述されれば、あたかも1950~60年代から県外に居住していて公害物質を摂取していなかった人たちであるかのような印象を構成することになる。まさに、「事実上のウソ」というほかない。
しかも、気に入らない政権を攻撃するために被害者団体を誹謗する「事実上のウソ」を利用したということであれば、ハッチンス委員会の提言の第2項(中立・公平)、第3項(ヘイトの禁止)、第5項(特定のリーダーに忖度して議題を制限しない)にも違反していることになる。イエロージャーナリズムを代表する記事だといえよう。
半世紀にわたってメディア倫理における最大級の禁忌(ウソをつかない)に抵触しかねない記事が同じ構図で継続しているというのでは、同社の、あるいは業界の、構造的な体質にかかわる問題だと非難されてもやむをえないのではないだろうか。

【ヘイトスピーチ】
ハッチンス委員会が、メディアの社会的責任として2番目に挙げた項目は「中立・公平にさまざまな意見を報じることによって説明と批評を交換する場としての役割を果たすこと」だ。これは日本のメディアでもしばしば語られる倫理規定なのでわかりやすいだろう。それに対して、第3項に挙げた「社会を構成しているいろいろな集団のイメージをきちんと代表するように描くこと」は少々わかりにくい。長くなるが、該当部分を訳して引用しておこう。

==引用
社会を構成しているいろいろな集団のイメージをきちんと代表するように描くこと
この要件は第1、第2の要件とも密接に関連します。多くの場合、人は印象の良しあしで判断をします。事実と意見を、偏見に関連づけて考えます。今日、映画、ラジオ、本、雑誌、新聞、漫画はこれらの因習的な概念を作り出し、持続させる主要なメディアになっています。これらのメディアによって描写されるイメージが社会的集団の本当の姿を反映していないと、人々は判断を踏み外してしまうことがあります。
そのような失敗は間接的ないし偶発的に起こるかもしれません。セリフとしては中国人について何も語っていなくても、映画の中で繰り返し中国人が不吉な麻薬中毒者や軍国主義者として登場するのであれば、そこで構築される中国のイメージは修正される必要があります。黒人が全国誌に掲載される小説の中ではいつも召使いなら、あるいはラジオドラマの中でいつも子どもが生意気で手に負えない悪ガキの役なら、黒人や子どものイメージはゆがめられてしまいます。特定の人種と、“冷酷な”、“乱雑な”、“官僚的な”などの「ヘイト」の言葉が、ラジオや新聞で、広告のコピーで、報道記事で盛んに伝えられると、やはり同じようなイメージの形成は避けられません。
この場合、責任ある行いは簡単です。反復され、強調されるイメージが、総体として社会的集団そのものをうまく代表するようにすればいいのです。どんな社会的集団であっても、弱点や欠点だけでなく、有用な価値、願望、共通する人間性を認識してこそ現実の姿といえます。本委員会は、人々が特定の集団の生活の内なる真実に触れることで、徐々にそれらの人々への尊敬と理解が深まっていくと信じています。
==おわり

いささかもってまわった言い回しになっているが、この項目を現代風にわかりやすく言い換えると、「特定の集団、とくに偏見を持たれがちなマイノリティへのヘイト禁止」となるだろう。ハッチンス委員会が設置される前提となった認識の一つが黄禍論を広めたイエロージャーナリズムへの反省である以上、これは当然の要求項目だといえるだろう。
近年でいえば、1994年のルワンダ虐殺ではメディアの影響が大きかったことが知られている。フツ族過激派の政治家や地方有力者が組織的に虐殺を主導したこともルワンダ国際戦犯法廷などで明らかになっているが、それだけでは国民の10%以上、人数にして約80万人以上が市民の手によって虐殺されたことの説明にはならない。識字率の低い同国では、人々は主にラジオによって日々のニュースや行政サービスの情報を得ていたところ、激しくなる内戦の一環として、政府は1992年3月からラジオを利用してツチ族に対するヘイトスピーチを流布するプロパガンダ政策に着手した。その中で、大統領自らがラジオ声明を通じて、ツチ族武装派に対抗するため市民に武装自警団を設置するよう呼び掛けるなどしている。さらに93年8月にはフツ至上主義者による「千の丘自由ラジオ」が開始され、あからさまにツチ族の殺戮を煽るなど、ヘイトスピーチに拍車がかかっていった。こうして丸2年に渡るヘイトスピーチによって極限まで部族対立の感情がかきたてられていたことが、「民間人による20世紀最大の虐殺」の主要因だとされている。
ホロコースト以来ともいうべき、マスメディアが引き起こしたこの大虐殺の実相が知られるようになると、国連をはじめとする国際機関はヘイトスピーチ問題への対処に前向きになっていった。「ヘイトスピーチの禁止」は、各国政府が右傾化する近年の社会状況の中で、ますます重要性を増しているメディア倫理の一つなのである。
新潮社刊行の雑誌記事には、この項目に抵触していると思われるものが少なからずある。たとえば『FOCUS』1985年7月19日号【事例3】である。

【事例3】FOCUS 1985年7月19日号


【事例3】がなぜこの項目に抵触しうるかについては、先ほど紹介したハッチンス委員会の引用からも明らかであろう。日本の文脈で言い換えると、90年代後半以降に少年犯罪の「増加」や「凶悪化」といった言説がメディアを賑わすようになったが、じつはこの間、少年犯罪は増加もしていなければ凶悪化もしていないというのがデータに裏付けられた専門家の共通理解である。増加したり凶悪化したり低年齢化したかのように人々が「体感」したのは、メディアの集中的な報道によって抱かされた虚像にすぎないというわけだ。メディアによる反復報道は、存在しない現象ですら、人々に存在すると確信させられるほどのパワーを持っているのである。
その点、【事例3】は「落ちこぼれ少年」をあたかも犯罪者予備軍であるかのように予感させる粗雑なラベリングを行っており、低学力生徒に対しても、少年犯罪についても、人々に予断を生じさせかねない危険性をはらんでいる。しかも、【事例3】は「当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真」を掲載してはならないという少年法の規定を犯してまでセンセーショナルに少年犯罪の問題化を狙ったものだ。少年法の規定はかならずしも罪を犯した少年に対し実名や顔写真を報道されない権利を付与しているものではないが、「父親を手オノで殺害する模様を画用紙に描き、それが殺害現場の寝室に貼りつけてあったという」などと不確かな情報で猟奇性を演出する記事の表現手法は妥当とはいえまい。少年の人権をないがしろにしたという意味でも、少年犯罪の危険性を過度に煽り立てる報道のはしりという意味でも、問題は小さくないといえる。

■メディアの自由と責任
2017年末、官僚の「忖度」が流行語大賞の一つに選ばれた。時代を解読するキーワードとして秀逸だったということだろう。報道、娯楽などずいぶん幅広い文脈で用いられるようになり、すっかり日常語に定着した感がある。たとえば、昨年は、政権を合理的に批判しようとしないメディアに対してもしばしばこの言葉が用いられた。田原総一朗「マスコミが安倍政権への忖度を続ける不思議」(『日経ビジネス ONLINE』2018年3月15日)、古賀茂明「安倍政権の霞が関破壊に手を貸す忖度メディア」(『AERA dot.』2018年4月9日)、元木昌彦「NHKは誰のために「忖度」を繰り返すのか」(『PRESIDENT Online』2018年12月27日)などだ。
これらの議論が、ハッチンス委員会による勧告第5項「日々のさまざまな情報への十分なアクセスを提供すること(特定のリーダーに忖度して議題を制限しない)」と共通する問題意識からなされたことは明白であろう。メディアが国家から自由でなければ民主主義は危機に瀕する。そういう問題意識だ。政府によるメディア統制が強まっている中、ますますこの問題意識は切実なものになりつつある。
だが一方で、自由を濫用することで他者の権利を侵害するメディアには、当然、何らかのペナルティが与えられなければならない。問題は、誰が、どうやって、どのような形でそれを与えるか、だ。
国家による統制はメディアの自由と矛盾するため、最大限に抑制的でなければならない。だが市民による直接抗議は不買運動の形をとらざるをえないため、成功裏に展開した場合でもトカゲのしっぽ切り同然の休廃刊措置に終わってしまう危険性が高い。やはりメディア倫理を審査する第三者機関に特権的な地位を与えたうえで、雑誌を含む全メディアがその勧告を誠実に履行するというのが最善の手段であろう。
たとえば、匿名コメントがねつ造ではないかと疑われる(だけの合理的な根拠を示された)とき、第三者機関に取材源と記録物を開示するというルールがあるだけで、「事実上の虚偽報道」は半減すると思われる。
いまそこにある民主主義の危機に対処するためだ。メディアが果たすべき社会的責任として、さほど重たい負担というわけではないはずだ。(了)

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