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モノとしての読書

読書とわたしについて書いてみたい。

わたしが生まれて初めて読書をしたのは、一歳の頃だったそうだ。なぜか本を逆さまにして、終わりの頁から読んでいたらしい。

「天才か」と母親は歓喜したそうだが、残念ながら天才などではなかった。小学生になるとポケモンのゲームにハマり、ゲーム三昧の毎日。結局、読書からは遠ざかってしまった。


 高校生の頃、偶然古書店で筒井康隆の本と出会った。ナンセンス、ブラックユーモア、スラップスティック、メタフィクション、彼の文学の自由さに魅了された。やってはいけないこと、社会的に不適合であることが文学では許される。そのことに安心した。自分の妄想は、悪いことじゃない。行動しなければよいのであって、頭の中で何を思い浮かべるのかは自由である。そんなことを筒井氏は教えてくれた気がする。

 大学生になると心理学を専攻し、専門書を読みふけった。人間というものに興味があり、その仕組みを知りたかった。しかし本を読み、ゼミで学んでわかったことは「人間はわからないものだ」という真理だった。考えても考えてもわからない。それどころか、わかったふりをすることが一番危険である。そんなことを学び、私は「こんな楽しい学問は他にない」と思った。

 卒業してからは心の病を抱える人を支援する仕事に就いた。大学時代に本を読んで学んだ知識をフル活用してみるも、全く歯が立たない。かのショーペンハウエルが「本から読みとった他人の考えは、他人様の食べのこし、見知らぬ客人の脱ぎ捨てた古着のようなものだ」と痛烈なことを書いているが、その理由がわかった気がした。

 読書は知るきっかけを与えてくれるが、人間そのものを理解するためのものではないのでだろう。そのためしばらく本から離れて、目の前の対象者と対話することを大切にした。


 数年経って、今度は自分が心の病を患った。診断名はうつ病である。身体が思うように動かなかったり、意欲が低下したりと苦しかった。本を読んでもなかなか文字が入ってこず苦労した。それでも、わたしを救ってくれたのはモノとしての本であった。

 本が隣にあること、いつでも頁をめくると、著者の思考が垣間見られること、そして、その手触りや装丁、帯に書いてある温かい一言。そうしたものに救われた。読書は他人の知識の借り物、それでもいい。たまには他者に頼りたい時だってあるのだ。東京大学の熊谷晋一郎教授は「自立とは依存先を増やすこと」と言った。ひとりで頑張りすぎてうつ病になったのだ。誰かに頼ること、それが人でなくても、モノとしての書物であってもいいはずだ。こうして、書物に囲まれていたことが幸いだった。

 結局、読書体験はわたしの人生にとって大きなものである。今のわたしの考え方の素地は間違いなく多くの書物から得ている。浅田彰が言った「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という考え方は今の仕事にも応用できている。他人の知識を借りつつ、自分のやりたいことを模索しながら働いている。

 わたしは読書という行為は「他人の知識に適度に依存しながら、自分の進む道を決めるための羅針盤」であると考えている。未来が不確実性を帯びている現代、知識というものはAIにとって替わられるのかもしれない。それでも、人間の意欲や想像力だけは残るであろう。読書はそれらを喚起してくれる。村上春樹に芸術性を感じ、重松清に涙し、太宰治に考えさせられるのはおそらく人間だけである。AIに真似できないものを、書物は喚起させてくれる。だからこそわたしは読書が好きだ。そして、できればモノとしての書物を持ち続けたい。書物は風化する。色褪せ、日焼けし、書き込みや付箋であふれる。それが、いかにも人間らしいと思うのだ。

 モノとしての読書、自分の身体感覚とぴったり合ったり、全然合わなかったりすることがとても楽しい。書物を捨て、人と対話する時期を経て読書に戻ってきたのは、書物と対話するということを覚えたからなのかもしれない。

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