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わたし、働けますか?
「わたし、働けますか?」
就労支援をしていると、そうした相談を受けることが多い。わたしは障がいのある方が一般企業に就職するための支援の仕事をしている。そこで感じていることを、徒然なるままに書いてみたい。
冒頭の問いにはいくつかの意味が込められているように感じている。まず、自分には働ける力があると証明してほしいという評価的側面、そして自信がない自分に対しての励ましを求めているということ。
ここで支援者は戸惑う。まず、わたしは評価できる立場ではない。かといってむやみに励ますことも難しい。そこでわたしはだいたい「わたしは誰でも働きたいと思えば働けると信じています」と答えることにしている。
支援者は強大な権力を持っているといつも思う。例えが悪いかもしれないが、囚人に対する看守のように当事者の自由を制限し、管理することも不可能ではない。それに自覚的でなければならない。わたしの発した一言が、当事者の自由を奪うかもしれない。ならば支援に必要なのは「どうなりたいか」という未来への問いと、当事者の答えを待つ力なのかもしれない。
当たり前だが、支援者は「あなたのためになるから」という思いでなにかを提案出来ても、それを強制することはできない。しかしながら支援者の立場・権力を使えば、提案も強制になりうる。
令和7年度より新しく「就労選択支援」という事業が開始される。厚生労働省によると「障害者本人が就労先・働き方についてより良い選択ができるよう、就労アセスメントの手法を活用して、本人の希望、就労能力や適性等に合った選択を支援する新たなサービス」であると定義されている。この「より良い選択」とはいったい何なのだろうか。また「本人の希望、就労能力や適性に合った選択を支援する」ことは、前述した権力の行使につながらないだろうか。
「より良い選択」を求めて支援者のもとに当事者がやってくる。そこに、様々な評価を加えたうえで選択先を提示する。これは「支援者は評価できる立場にない」というわたしの見解と矛盾している。相手がベテラン支援者であればなおさら、当事者は自分の希望とは無関係に支援者の提案に乗ってしまうのではないだろうか。そんなことを危惧している。
しかしこんなことを言っていても制度は始まってしまう。それならばどうすればいいか。まず支援者が立場をわきまえることであろう。選択肢の提示にしても、その後の進路についても、定義にある本人の「希望」や願望に基づいて行われるべきだ。いかに非現実的に思えても、そこに口出しをしてはならない。またアセスメントだけでは見られない当事者の強みが必ずあるはずである。そしてそれは実際の職場環境において初めて見つかり、発揮されるものかもしれない。考えてみれば、支援者はアセスメントされず支援者となり、働く中で支援はなんたるものかを学んでいく。未来の予測など、誰もできない。
また、個人にのみ働きかける支援は支援ではないとも考えている。障がいのある方が就職するには、企業や社会の障がいに対する理解が不可欠である。現在すべての企業には障がい者への合理的配慮が義務化されているが、適切に使われているケースはそう多くはないのではないか。障がいは社会にバリアがあるため、そのバリアを取り除けば障がいではなくなるという考え方を「障がいの社会モデル」というが、個人に原因を帰するという考え方はまだ主流であると感じている。それは、企業だけでなく支援者も含めてである。自己奉仕バイアスという、上手くいったことは自身のおかげ、上手くいかなかったことは他者や外部要因のせいだと考える人間の思考のクセも手伝って、どうしても障がい者当人に問題があるという考えに陥りやすい。これでは障がい者雇用も進んでいかない。
打開策はあるのだろうか。支援者が権力的にならず、対等な意識を持ちつつ、社会に理解を要請していくこと。非常に難しいが、これからの曖昧かつ不確実な時代にとっては、誰もが困難な立場に陥る可能性がある。まずは支援者も含め、全員がこのことに思いを馳せる必要があるのではないかと思う。
「わたし、働けますか?」という冒頭の問いに、みなさんはどう答えるだろうか。わたしは答えに躊躇しつつも、働きたいという思いがあることを確認できたのならば、伴走的に共に緒に悩み、考え続ける支援者でありたい。
自戒の意味を込めてこの文章を書いた次第である。支援者が自身の支援を振り返る機会になれば幸いである。