東京に帰られて、その後どうお過ごしですか?「坊っちゃん」 by 夏目漱石
悪戦苦闘読書ノート第8回 夏目漱石作 「坊っちゃん」
発表1906年(明治39)
こんにちは。今回は、夏目漱石作、「坊っちゃん」です。
気が滅入ることばかりなので、少しでも明るい気持ちになれる作品を読みたいと思い、選びました。
この作品には、「無鉄砲な青年教師がひき起こす騒動を描いた、ユーモア小説」のイメージがありました。しかし、今回読了してみて、「無鉄砲」なだけでない、坊っちゃんに出会いました。彼の「悲しみ」「弱さ」、そして、たった一人の味方に対する「優しさ」を感じながら、温かい気持ちになれました。坊っちゃんの「東京に戻ってからの物語」を熱望しています。
あらすじ
主人公の青年は、「親譲りの無鉄砲でこどもの時から損ばかりしている」と思っている。
青年は、両親との死別や、彼を大切にしてくれた老婢(「住み込みの高齢のお手伝いさん」という感じでしょうか)の清(キヨ)との別れを経て、教師として四国の中学校へ赴任する。
青年は、その性格のため、生徒や同僚教師との間で、次々と騒動を起こす。
赴任して約一か月後、青年は、ある問題に決着をつけると、教師を辞めて、帰京する。
こう読みました
本作は、「孤独な青年が、自分に対する老婢の気遣いを、彼女と離れて暮らすことで、再認識し、彼女に対する愛情を深める」物語と思いました。
本作には、次の三つのことが描かれています。
①主人公の生い立ち:こどもの頃から無鉄砲な乱暴者で、身内や近所の人々に嫌われる。一方、清だけは、主人公が「気味が悪い」と感じるほど、主人公を慈しんでくれたこと。
②赴任した地でのこと:
・その性格から、主人公が起こした騒動、あるいは、巻き込まれてしまった騒動の、始まりから決着まで
・赴任した地で、不満の多い主人公が、自分の唯一の味方とみなす清を、たびたび懐かしむ様子
③帰京後のこと
①の内容は、「これでもか」と書き込まれています。そのおかげで、②で、坊っちゃんが、よきにつけ、悪しきにつけ、「清ならこうするだろう」「清にもこの美しい景色を見せてやりたい」と思う心情が、とても共感しやすいのです。そのため、②の騒動は、「坊っちゃんに清を懐かしいと思わせるために設けたの?」と思ったほどでした。
というのも、②での、直情径行に過ぎる主人公の考えや行動は、理解しがたく、共感しにくかったからです。このような、主人公に対する距離を縮めてくれたのは、新潮文庫での江藤淳の(昭和54年9月)の解説でした。
・すなわち、旧幕臣の出である坊ちゃん、そして朝敵の汚名を着せられた「会津っぽ」である山嵐は、二人とも時流に残された敗者の裔にほかならない。これに対して赤シャツは、帝国大学での文学士であるばかりでなく、すでにして一校の教頭である。
・坊ちゃんも山嵐も、赤シャツと野だを退治こそするが、実はよく考えてみれば単に腹いせをしたというにすぎない。勝ったはずの二人は辞表を出して「不浄の地」を離れなければならなくなり、おそらく赤シャツと野だは恬として中学校を牛耳りつづけるだろうからである。このように一見勝者と見える坊ちゃんと山嵐が、実は敗者にほかならないという一点において、一見ユーモアに満ち溢れているように見える坊ちゃん全編の行間には、実は限りない寂しさが漂っている。
・坊ちゃんは敗れたが、彼には帰るべきところがあった。それは清の家であり、究極には地の底の”女偏の比(死んだ母)なるもの”の住む場所であった。そこにこそ、漱石が渇望する暖かさの、源泉があったのである。
以上の江藤淳解説は、次のように要約できると思います。
・漱石は、自身が大切にする生得の言葉や生得の倫理が、付け焼刃の近代の価値に敗れ続けていることをよくわかっていた。
・その漱石が書いた坊ちゃんは寂しい物語である。
・しかし、清という主人公が帰る場所が描かれたことで、救いのような暖かみが与えられた、
江藤淳解説のおかげで、すっきりしました!
感想
江藤淳解説のとおり、坊ちゃんは「敗者」かもしれません。しかし、赤シャツに代表される価値観も、いずれ敗れることを、現代の私たちは知っているのではないでしょうか。いずれにしても、夏目漱石がそのような問題意識で本作を書いたことを知り、本作の奥深さを感じました。
そのうえで、やはり、「ただ一人自分を愛してくれる人と離れ、社会に出た主人公が、自分に注がれていた愛情の深さに気づき、やがてその人のもとに帰る」物語として読むのが、今の私は好きです。
創作のヒント
どなたか、帰京後の「坊っちゃん」の物語を、書いてくれませんか?