“知らない”ということを “知る”こと
無知の知
大学で受けた哲学メジャーの授業で、教授が「厳密にいうと無知の知という日本の言い方は間違っている」と言っていたのを思い出した
ということでこの表題である
留学に来て1番知ることはなんだろう
異なる文化?
異なる言葉?
異なる社会?
いや違う
“知らない” ということだ
言い方を変えれば
新しいことを知るということであり
このことを思ったのはある友達との出会いだった
彼はキプロス出身で日本について学んでいる
最初会ったとき、キプロス出身だと言われて私はそれって国ですか、知らない国の名前だなぁという反応してしまった
厳密にいうと違う。というのもキプロスという国はもちろん知っていた。地中海ら辺にある国だという知識もあった
しかし、英語名が全く異なることを知らなかったのだ
諸君、知っているだろうか
キプロスの英語名はCyprusである
どうも彼いわく、キプロスは彼らの公用語であるギリシャ語そのままの名前で日本はそのまま使用しているらしい
そのとき「しまった」と感じた
自分の国の名前を言っても理解されない感覚を想像してみた
ここで私が「日本」という国に帰属している感覚、「日本人」というアイデンティティを生に感じた
考えてみると自分の国の名前が通用するのはすごいことではないのか
今までで経験した中で日本という国の名前を全く知らないという人には出会ったことがない
それどころか日本と言っただけで会話が弾んだ経験も少なくない
おそろしいことでもある
私が出会う外国人もまた、限られた世界のeducatedされた社会階級の人であるということでもある
話が脱線しそうなので元に戻そう
彼とは何回か話す機会があった
そして知ったのだ
知らないということを
キプロスが韓国と北朝鮮のように分断された国であったということを
しかもたった15年前だという
興味がある人は「キプロス問題」というので検索してみてくれ
この説明は割愛させてもらう
アイスランドに来て以来自分がいかに知らないかを知る
“知らない”ということを “知る”機会が
はたしてこの学生生活を終えて
日本の社会で働くとなったときに
果たしてこれほど多く持てるのだろうか
自分は年齢を重ねるごとに
“知っている”と自負して
“知らない”ということをおろそかにしないだろうか
以前千利休が言っていた言葉を思い出した
おそらく脚色されていると思うが
「知りたい、知りたいとおもおて知れるのは
傲慢や
それはあなたさんの我や」
この言葉は実は大河ドラマで聞いたのだが
いわゆる私も傲慢なのであろうか
利休の考え方もまた奥が深いと思った
以上目下のぼやきである
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