「存在しないもの」を見たり、聴いたりする才能と「眠って見る夢」
写真:ゴッホ「星月夜」(Wikipediaより)
「眠って見る夢」では、ときに、
「そこに存在しないものを見たり、聴いたりする」
ことができます。
このこととは少し、話が異なりますが、芸術家でも科学者でも、独創的な仕事をした人は、
「そこに存在しないものを見たり、聴いたりした人」
だといえるでしょう。
たとえばゴッホの「星月夜」という絵を思い出してください。
あんな風景は、ゴッホ以前には誰も目にしたことがありません。それを彼の「天才」は、夢の中なのかどうかは知りませんが、いつか心のなかで、たしかに「見た」のです。
モーツアルトだって、心のなかで「聴いた音楽」を楽譜に記したにちがいありません。
「独創」とは、特別な才能を持った人が、普通の人に先駆けて「見たり、聴いたり」したことを表現したものにほかならないのです。
それが、夢のなかでは、わたしたち「普通の人」にも、ときに可能になります。
ここで「普通の人」とは、その領域において「ごくあたりまえの常識人」といった程度の意味です。わたしたちは通常、あらゆる物事を、ごくあたりまえの常識どおりに見たり、聴いたりしているのでないでしょうか。
ところが、夢の中では、目覚めているときの常識の束縛がとり払われます。そして、本来は誰にもそなわっている想像力が、自由に羽ばたき、自由に飛び回ります。
そう、夢は人の心を「自由にしてくれる」のです。その結果、目覚めているときには見えないものが見えたり、聞こえない音や言葉が聞こえたりするというわけです。
そんな自由な想像力には誰もが憧れます。なかでも石川啄木という人は、自由への憧れが強かったのでしょう。自由に姿を変え、どこへでも自由に飛んでいく「空の雲」に託して「雲は天才である」という小説を書きました。
写真:石川啄木と雲
それは、彼の分身の新田耕助という若い代用教員が、「教育勅語」を後生大事に奉じている校長に反抗し、一人の女教師と生徒たちを味方につけてやりこめる話です。
ただ、この小説は、ちっともおもしろくない失敗作で、未完のまま終わっています。啄木も、そのことが分かっていたのか、みずから、
くだらない小説を書きてよろこべる
男憐れなり
初秋の風
という短歌を詠みました。
その啄木が、短歌の世界では素晴らしい、たくさんの作品を残しています。わたしの好きな歌に、こんなのがあります。
宗次郎に
おかねが泣きて口説き居り
大根の花白きゆふぐれ
写真:大根の花(Wikipediaより)
寝入りばなに見る夢のような、のどかで懐かしい、田舎の夕暮れの風景が彷彿とするようです。