5月④ 夕焼けや海と棚田を赤く染め(夕陽に映える海辺の棚田)
写真:Wikimediaより
モロッコを旅したとき、サハラ砂漠の入口に出かけました。この「砂漠」――中国語では「沙漠」と書くことが多いようです。
「砂」の世界なので「砂漠」なのでしょう。が、そういう自然は「雨が降らず、水が『少』ない」からできるわけです。
ただ、砂のない岩肌が広がる「砂漠」もあります。
とすれば
「『沙漠』という表記のほうがふさわしいな」
などと思わされたりします。
それを「砂漠」と表記するようになったは、1946年に制定された当用漢字に「沙」の文字が含まれていなかったようです。
ところで、目の前に広がる空間には「何もない」――といえば「赤茶けた膨大な量の砂がある」ので語弊がありますが――それが最初の実感でした。
で、つぎの瞬間、
「こういう環境で暮らしていくには、なにか巨大な力に頼りたくなるんやろな」
そんな実感がこみ上げてきました。で、同時に、
「そうか、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教は、こういう環境に暮らす人々が生み出したんや」
まあ、勝手な思い込みに過ぎません。が、そんな実感に捉えられたのです。
で、翻ってインドあたりから東の人々の信念の形を振り返ると、認識論に近い仏教や道教、アニミズム的な要素をはらむ日本の神道のような多神教が支配的なのではないか。そういう思いが沸き上がってきました。
これら森林の多い自然には、暮らしに役立つ動・植物、水や地質などが含まれていて、その「ありがたみ」が「神を感じさせる」のかも知れません。
ただ、西ヨーロッパに目をやると、そこもまた豊かな森林世界です。だから、ローマがキリスト教の洗礼を受けたあと、この一神教がアルプス以北にまで伝わるまでの人々の信仰の形は、やっぱり多神教的であったわけです。
そこで思い出すのは、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』が指摘するように「宗教的信仰」は「病原菌への感染」に似ているのかも知れません。そう考えると、西ヨーロッパのキリスト教への転換も理解できそうだという気がします
で、こんなコラムを書いてみました。おひまなときに、ご覧ください。
ユーラシア大陸の西半分の人々は固有の唯一絶対神に帰依する。が、東半分に住む人々は、豊かな恵みをもたらしてくれる大自然の随所に「神々」のありがたい姿を垣間見る。それがアニミズム(精霊信仰)の名で呼ばれる信仰の形なのだ。
それは自然だけでなく、文明にも影響を及ぼす。
実際、一昔前の日本人は、たとえば正月になると自動車のフロントグリルに注連縄を、家電製品には鏡餅を飾ったものだ。利便をもたらしてくれる「神」の存在を仮想したからにほかならない。
そんな気風が、日本の工業製品の高品質を下支えしてきたし、今も下支えしている。
ボルト一本、部品一個に、作る人が魂を注ぎ込むことで、全体の品質が高い水準に保たれる。アニミズムは現代の科学・技術に支えられた日本文明のなかにも生きている。
そこで「棚田」である。それは迫田・沢田・谷田・谷戸田・山田など、さまざまな名で呼ばれる。
ただ、高地の頂上付近の水量も少なく、水温も低い小さな沢や池を用水源とする棚田の生産性は低い。が、小規模な労働力でも開墾でき、河川の氾濫の影響を受けず、安定した収穫が期待できるといった利点もある。
そんな太古の智恵が生んだ棚田は、中世以降、西日本各地で小農民の成長を励ましてきた。
それが現代なお、玄海町や能登半島などでは、細々ながら現役を誇っている。天気の良い夕方には、海に沈む夕陽を浴びて、赤みをおびた黄金色に輝き、人の目を楽しませてもくれる。
そして農民たちの営々たる努力が生み出した、その一枚ずつに、なにやら「神」にも見まごうありがたさが漂う。
徹底して人工を加え、丹精に丹精を重ねて初めて姿を現わす大自然の豊かな美しさと恵み――。
夕陽に映える棚田の風景は、乱暴な人工を加え、あるいは人手を加えるの止めたことで荒廃していく国土の姿を、ぼくら日本人に向けて「照りかえす鏡」であるのかもしれない。
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