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12月 西日本の最高峰、四国の石鎚山

 昨年2019年12月8日、真珠湾攻撃の記念日のことです。日本では皇居内にあった大嘗宮(だいじょうきゅう)が解体されました。
 「わずか1か月足らずで解体するのは常若(とこわか)を旨とする神道だからなのか」
 などと考えながら、その建設費用に興味を引かれました。と、10億円足らずだということです。
 じゃあ、解体後はどうするのかというと、砕いて燃料チップにし、バイオマス発電に利用するのだそうです。まあ、何かに利用するのは結構なのですが、その材木量は約550立米。比重を0.5程度と考えると、重量は250~300トンぐらいのようです。
 で、多めに見積もって300トンとします。と、その価格はトン当たり2000円程度だそうですから、約60万円で建設費の0.06%――こうしてみると、
 「なんだかもったいないなあ」
 と思わされるのはぼくだけでしょうか。

 で、思い出すのは、大嘗祭の経費に関する秋篠宮の発言です。
 「(大嘗祭のような)宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」 
 実にまっとうな発言だったのですが、完全に無視されました。

 さて、大嘗祭は明らかに神道の行事です。とすると、天皇家の宗教は神道なのかというと、どうも、そうとも言えないようです。というのも、明治維新までは京都御所に「黒戸」という名の持仏堂があったからです。
 それが明治の廃仏毀釈を契機に、これまた京都にある天皇家の菩提寺である泉涌寺の海会堂に転用され、そこが歴代天皇の位牌や念持仏の安置場所になっているのです。

 ぼく自身は天皇家にも神仏にも余り関心はありません。が、大嘗祭とその後始末といった出来事に刺激されて、つい幕末・明治の廃仏毀釈の果たした役割などに思いが行ってしまいます。
 で、四国の石鎚山(いしづちやま)の写真を眺めながら、こんなコラムを書いてみました。         (「石鎚山の写真」撮影:薩摩嘉克)

 写真中央、石鎚山の中腹の白いものは雪ではない。霧氷である。晴れた夜に放射冷却で冷やされた空気中の水蒸気が、そのまま真っ白に凍り、木々の梢に付着して朝焼けに照り返されているのだ。
 手前の社の屋根が白いのは霜であろう。それは未だ陽光の陰にある。その薄明かりの彼方に差す光は、ついさっきまで死の世界が支配していた夜の闇を切り裂く無垢の生命の蘇りを思わせる。古来そこに日本人は、人知を超えた力を感知してきたようだ。

 清らかな純白の装束を身に着け、神そのものでもある山を仰ぎあおぎ、かつ登って礼拝する。そのためには海か川か滝の水で、心身を清めておかなければならない。禊ぎ、である。
 ついで険しい坂を踏みしめ、岩場を這って高みに登る。なかでも3か所に鎖の助けなしには登れない岩場のある、ここ石槌山は命がけの修行の場となるのだ。
 その果てに澄みきった空気を通して神々しくそびえる山頂を目にするとき、人の心は神に近づき、その体には神が宿るかのようだ。

 あえて神仏を区別する必要はない。いずれもが人の魂を癒やし、鎮める「二にして一なる存在」にほかならないのだから。
 それを、「分けることが分かることだ」と考えた近代日本は、国家の守護を神道にゆだね、仏教を冷遇した。このことが、伝来の神道と仏教、いずれもの衰弱という結果をもたらすことになった。

 そこで思い出すのは、かつて柳田國男が『山人外傳資料』に記した「石槌のツチは剣ならん」という一文だ。なるほど、深読みすれば、大自然の随所に神の姿を見る神道の自然観、万物の流転と輪廻を奉じる仏教の宇宙観が合一するとき、深刻な環境破壊をもたらしつつある現代文明を戒める「剣(つるぎ)」となる可能性がある。
 石鎚山の霧氷に照り返す朝焼けの光明に、そんな思いが掻きたてられる。

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