日本学術会議に関する論点整理が全員おかしい件
日本学術会議に関する連日の報道に関して、一応法務博士を持っている身としてはいささか違和感のあることが多いので少し調べつつまとめておく。
前提整理
今回の問題は、菅総理大臣が日本学術会議の会員の任命に関し、同会議からの推薦を受けた者のうち、6名を任命しないことに端を発する。
任命されていない会員がいるので現在欠員が出ているように思われるが今回はそこは触れず、任命に関する問題だけに焦点を当てる。
なお、おそらくこの法律一つとっても解説や立法者意思、事例、法制局解釈などが積み上がっており浅学の身ではともて正しい回答は導けないが、報道で見聞きした情報や自身の学識、法律と国会議事録に頼って自分なりに考えてみようと思う。頭の体操として。
官邸側の論理
官邸側の論理はあまり明快とは言えないが、国会において政府が説明していた公式の解釈として、総理は形式的な任命権があるのみであるとするもので一応以下にその議事録を引用しておく。
中曽根総理「政府が行うのは形式的任命にすぎません。したがって、実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているようなもので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば、学問の自由独立というものはあくまで保障されるものと考えております。」
上記の政府解釈を現在も継承し、解釈変更はしていないとのこと。
この前提に立つと無理は感じるものの一応、学術集団が握っているのはあくまで推薦権であるといえる。また、政府の任命行為は形式的とされているが、推薦権を持っているものについて実質に立ち入らない程度の任命の裁量があると読めなくはない。
現に日本学術会議法第26条1項においては会員に不適切な行為がある場合、総理はその者を退職させられるとされており、このことから考えれば当然任命に際しても退会させられるような行為が認められれば任命できないと解釈することは可能かと思われる。(以下条文リンク)
この場合、退会させられる行為の存在は必要だが少なくともそういった意味での任命権や限られた範囲での、あるいはほとんど存在しない適用に関する判断に限られた任命権は存在するように考えられる。
もしこの解釈によった場合、たしかに人事に関するもので、ありあまり大々的に公表できないという配慮はあり得ると考える。
もっとも、正直解釈としてこれが通るとしても、報道されている事実に基づくと退会させなければならないような事実が見受けられないため運用として違法性を問われても仕方ないかなとは思われる。(例えばスパイ行為に加担しているという事実があるといったことは想定できるが、日本にはスパイ行為を禁じる法律がないため、これ自体で退会させるべき行為と言えるかは微妙かと思われる。)
ただし、総理がリストを見てない云々の批判はあまりにも形式論にすぎると思われる。
総理大臣ほどとなれば多忙を極めるし、通常総理大臣がすると法定される行為を実際は事務方が行うことはざらであり(法律上は事務の代理行為と思われる)、各省庁、地方自治体でもある、もっと言えば会社でも代表取締役の名で各部署が書面を作成することはよくある。そのため、推薦のリストをみていないことを批判するのは滑稽に思えてくる。
日本学術会議の論理
日本学術会議の論理はおそらく法律論と憲法論と2種類あるように思われる。
法律論としては、上記の法律解釈について形式的任命の範囲を逸脱しており違法である、または解釈変更だとしてもそれは憲法に規定された学問の自由を侵害する解釈変更であるというもののように感じられる。
ただ、報道を見ると厳密に法律論として主張されているものがあまり見受けられずこれが最も残念に感じるところである。
当時の中曽根総理が、国会答弁で学問の自由に言及していることから学問の自由の話が焦点になってしまったのでないかとも思うが、基本的には今回の件を学問の自由の問題としてストレートに捉えるのは不自然と考える。
学問の自由は、原則として自由権であり、これは国家の介入を受けず自由に知的探求に没頭できる自由である。言い換えれば放っておいてもらう自由のはずである。
これと対をなすものとしては請求権としての憲法上の権利があるが、これは財産を補償しろとか国家に何かを要求する権利である。
学問の自由が放っておいてもらう権利であれば、一人で研究を好きにやればよく自費でいくらでも自由にやれる。もしくは自分でお金を集めてもいいし、大学という別の研究できる場所もある。
したがって、税金を投入される学術会議という国家機関で自由に裁量を振るわせろというのは自由権ではなく請求権になってしまうと思われ基本的には学問の自由とは関係ないと考えられる。
純粋に法律の解釈としては、会議は独立して職務を執行することとなっており、その独立性の問題ないし会議の設立目的の問題として違法性の話をすればよく学問の自由を金科玉条のように持ち出すのはとても違和感があり、おそらく法律の論文でいきなりこの事例を学問の自由の問題として回答しはじめたら論点整理ミスで点数がつかないように思う。
特に現実的には裁判上の解決が模索もされるが、まずは法律論として、次いで憲法論を持ち出すのが筋と思われる。
そもそも憲法は国家の基本原理とはいえ、根本原理を簡易に書いているに過ぎず個別の案件をいちいちそれで判断したりはしない。個別の案件に適切に対処するために法律があるのであり、憲法はその指針や法律で解決不能な場合に論じるべき問題である。
学問の自由の趣旨が侵害されいてるという主張はぱっとみわからなくもないのだが、だから違法だと即答できる問題ではなく、あくまでその趣旨に鑑みたうえで法律論として処理すべき問題に思う。(多分報道が略され過ぎて法律論として言っている人もいっぱいいるのだとは思う。ただ、それを踏まえてもあまり国民の理解を得ようとしているようには見えず、憲法で特権を保証されているといばっているように見られても仕方ない面もあるきがする。)
野党?の論理
野党に恨みはないが、正直政権批判できるから一番問題を加熱させられる憲法論に乗っかているだけに見える。
戦前も犬養毅が統帥権干犯問題を持ち出し、本来政策や法律、その運用の問題として処理すべき帝国軍の予算、人事、運用について憲法論を持ち出し軍部暴走のきっかけを作った。その結果五一五事件で自分が暗殺されたわけだが、もう少し政治宣伝なく建設的に議論するほうがよいように思う。
おそらくだが、官邸が素直に謝ったり解釈変更であると素直に言えばそれを更に大問題のように吹聴するのだと思う。
謝って済む問題ではないなどと言い出せば逆に謝れなくなるようなものである。
この辺は悪い意味で信頼感が生じてしまっている。(あと野党が言ってないかもしれないが、天皇の任命と比べるのはあまり筋が良いとは思わない。民主的統制があることが今の憲法の基盤なので、民主的に選ばれた総理の任命権と世襲的君主の任命の問題を一緒に比べるのは本質を無視している。)
結論
今回の問題は少なくとも法律解釈の変更がなければ違法な事例のように考える。ただし、税金により運用されている会議であるため学問の内容や質ではなく、構成員の編成や経歴の偏りがないように任命に裁量をもたせること自体が違法な法律解釈とは思えないため、法律解釈の変更と言えばいいのではないかと思う。
中曽根総理の言い回しと若干矛盾しないでもないが、そういう意味では構成員の編成などの形式的な裁量があると法解釈自体を解釈しなおしているのかもしれないがこれ以上はよくわからない。
おそらく法律解釈の変更を言われると適法な可能性が十分に出てしまうため、憲法論を持ち出している側面があるのだと思う。
日本学術会議はその設立経緯からして政府からの独立性を強く意識している。しかし、それをあまりにも言い過ぎて法律解釈よりも実際の政治的な取引が優位に立ってしまうとそれは法律による行政の原理を学術会議が歪めることになる。
その意味で、学問の自由を形式的に主張するのではく学術会議がどのような組織で、どう国民の役に立つのかの説明が会議には求められると考える。
その上で今後のあり方は国民の代表たる議会と政府に委ねるのが筋と思う。
特に戦後すぐとは環境が大きく変化しており、軍事と民生の境界はとても曖昧であり、かつ主権国家であることを維持しないと基本的人権が侵害される戦争や侵略されることにつながることが見落とされている。
もう世界の大国としての大日本帝国は存在しないし、経済大国の日本もいない(なんだったら外交の当事者能力すら怪しい)、世界有数の軍事力を誇った帝国軍も今はなく、手足を縛られまともな戦略も攻撃能力も持たせてもらえない自衛隊だけがいるということを忘れている。
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