【雑感】読み聞かせ

一昨日投稿した記事を読み返していると、文の接続や語彙がおかしな部分が沢山見つかり、思わず恥じ入ってしまった。
校正や推敲の大事さを痛感した次第である。まず日付が変わるギリギリとかいう眠たい時間に書くのを止めることからだろうが……。

話は変わるが。
向山洋一という教育者をご存じだろうか。『跳び箱は誰でも跳ばせられる』という本が有名で、恐らく知っている人も多いのだと思う。
最近思うところがあって、彼が監修した『子どもがじっと耳を傾ける魔法のおはなし』という本を読んだ。僕が子供の頃初めて手にした文字だけの本であり、母親の読み聞かせの道具でもあったそれは、15年以上の時を経て再び僕の手に戻ってきた。
教育学者の集めた御伽噺が僕を育てる最初の足掛かりになったというのは何だか不思議な因果を感じるが、今また読んでみると、各物語に込められた大人の意図が透けて見えてきて、いたたまれない気持ちになる。
僕のようによく言えば素直な、悪く言えば頭が空っぽな少年にはウケがよかったわけだが、ちょっと悪賢い子どもならすぐに露骨な意図に気付いて捻くれそうなものだ(批判したいわけではない)。

果たして、読み聞かせをする意味とは何だろう。
物語という形式を通じて、子どもに教訓を与えたいからか。
子どもに物語の世界へ触れる経験を与えるためか。
或いはそれを通して、大人たちも何かに気付くためなのか。
かつての自らの経験を通して、大人になった今、もう一度考えてみるのも悪くないのかな、と思う。

そういえば、未だにその御伽噺の中には、幾つか覚えているものがある。
井の中の蛙が大海を知る話、電気がまを発明した人の話、広場の真ん中に大きな石を置いた町長の話……。この歳になっても僕を縛る価値観の、始まりの場所がここなのかもしれない。
幼い頃を育み、若い頃を蝕んだかもしれない鎖と、今一度正面から向き合ってみようか。これからの自分を見つめ直すためにも。

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