牙の置きどころ
歳を重ねるというのは、誰かと歩調を合わせるのが難しくなるということなのかも知れません。
外に出て、話しかけてくれる人たちは、皆エネルギーに満ちた意欲と熱意を持ち、誰もが幸せになれるヴィジョンや、失敗を恐れない果敢な計画など、彼らの信じる”善いもの”について絶えず発信し、一緒にやろうと手を差し伸べてくれました。
自分はそれらに同調してみるのですが、どこかで必ず齟齬が生じ、上手く行かなくなることが多くなっていました。自分が先走って相手を困らせるとか、自分の方が相手についていけなくなるとか、困ったことになるのです。他人と足並みを揃えることが得意分野だったのは錯覚で、いまや誰とも同調できない、扱いにくい人間であることを自覚しました。
結局のところ、誰かの生活(信念)を侵してまで正しいと思えるようなことが自分にはないのです。あらゆる多様性がせめぎ合う中で、自分の居場所を確保することを二の次にした結果、なんらかの判断を下す基準を失いました。全てがグレーであるというより、様々な色が同居しているのです。混ざり合って見えるのは遠くから見たときだけで、本当は誰も、どことも混ざり合っていなかったのです。
他人の存在を忘れてものづくりに打ち込める人のことを心から羨ましく思うと同時に、惨めな感情を抱いてしまうこともあります。
そういうときは、本を読むことで紛らわせました。
くだらないことだとは理解していましたが、今はこの惨めさを経験しなければならないのだろうと思ったし、本を読む以外の体力がわいてきませんでした。
詩や小説ではなく、ヨーロッパの歴史書が慰めになりました。
去年の秋は彼女ができたので、今年の春には同棲しようと思っていました。誰もが口を揃えて「何事も勢いが大事」と教えてくれたので、短歌と俳句を作るのは止めて、ファイナンシャルプランナーに相談し、貯蓄や住宅ローンの仕組みについて教えてもらいながら、週末は彼女と出かけたり、料理を作り合ったりして過ごしました。彼女のためならなんでも用意したいと思い、必要なものは先回りして確認し、ミスのないように努めました。多少の無理をすることが愛情表現だし、他人に何かできること自体が幸せだと思っていました。
対応が良いと評判の不動産屋を見つけ、素敵な物件をいくつか案内してもらった日の夜、何かの拍子に「寿司の次に好きだよ」と冗談めかして言われたとき、自分は異常なほどショックを受け、翌日から彼女と話す気が起こらなくなってしまいました。お寿司も食べられなくなりました。
この歳になっても、馬鹿みたいな内容で傷つき、気の利いた返事もできない、器の小さな自分が消えておらず、一年前から何も変わっていないことに落胆しました。
そうして、お寿司やお酒に勝っていると思い込んでいた自分を心から恥じました。寿司には寿司の職人が、酒には酒の職人がいて、多くの人と協力しながらそれを作り上げているのです。
自分ひとりで何かをしても、その意図が目の前の人に伝わるかどうかだけでも怪しい未熟さしかないのに、自分にしかできないものがあるなどと思い上がっていたようです。
そのまま意気消沈していたところ、全身の倦怠感と目の痛みが日に日に増していき、外出することも本を読むこともなくなりました。呼吸困難と不眠も経験しました。
もしこれがずっと続くなら、こんな弱々しい存在がこの世に居続ける意味を考えなくてはならないとは思いつつ、思考はどんどん粗暴で意味不明なものになっていました。
自分のことばも他人のことばも信用できず、上手く飲み込めないし吐き出せない状態が続きました。
オオカミとウサギが愛し合う夢を見ました。オオカミは自らの牙を捨て、ウサギは重たい鎧を身につけながら、自分から逃げるように走っていくのです。
どこまでもひとりぼっちであるような気がしました。
最近はようやく身体の力が戻ってきました。
自分の年齢では、石川啄木や梶井基次郎はすでに鬼籍に入り、来年は正岡子規の死んだ齢に迫ろうとしています。
ださい言葉を書き残すくらいなら何もしない方が世の中のためなのかもしれませんが、おそらくみんなも分かってやっているのだと思います。
世の中の眩しさに怯えながら、一筋とも呼べない暗い望みをかけ、どうしようもなく拙い言葉を紡がざるを得ない人間として、自分はいます。
オオカミが捨てた牙は、足元に落ちています。