【日記】語り落ちて
287.散文の地平に雪が降り積もる小指の灼ける人を隠して
人生で二度目の俳句会、「嫌になっちゃうな」と言われながら特選を2つ頂いた。
ビギナーズラックと思われたか、あるいは初心者の癖に生意気なことばを使ったと思われたか、どっちでも良いけれどもこれから一生をかけて取り組む甲斐が欲しい。
中途半端な出来の創作というものは変に妬まれたり下に見られたりして面倒だから、感情を一旦置いてとにかく勉強するというクールさも必要だと思う。
最近は人間の作ったもの、特に「私を見て」というような美術作品はいささか食傷気味で吐き気がしてくる。
ただ、その日に言われた「あなたの俳句は俳句ではなく、未完成の短歌に近いね。散文調になっているものがあるよ」という指摘は、分かるような、分からないような、でも重要なことかもしれないと思った。鋭いことばを置ける場所に、隙のあることばを置いてしまっているということだと自分は解釈した。
俳句は偏執的なまでに言葉を選りすぐる必要があるが、短歌は上の句と下の句の取り合わせの偶然性を楽しんだり、句を跨いでみたり、句読点だって使える余地があるということで、人がうたに乗せることのできる余白に大きな差があると思う。
俳句特有の「季語」という概念についても、なるべく早く歳時記を購入して、その内容を吟味した方が良いと言われた。
例えば「時雨」は冬の季語で、そこには冬の雨に付属する冷たさや物悲しさといった情感を同時に含んでいる。しかし「春時雨」というときはそういった物悲しさは影を潜め、冬の終わりにあたたかな雨が大地に降り注ぎ、花や木の芽が濡れて、生き物の初々しい香りが立ちこめてくるような、華やいだ春のイメージに変化する。季語には、それがどのくらいの時間で、温度や湿度はどのくらいで、視界は明るいのか暗いのか、というような「手触り」が既に織り込まれていることが多く、使い手が自分の都合の良いように解釈して置けるものではなくなっているらしい。
だから前提として、季語を他の言葉でいくら修飾したとしても、俳句の骨格となる部分=季語の持つ意味そのものを変形させることはできない、と考えた方が良いのかもしれない(敢えてそこに挑戦する面白さはあると個人的には思う)。
また、文語体が持つ豊かさについても、自分は大きな見落としがあったと反省した。
例えば今から136年前に書かれた二葉亭四迷の「浮雲」の第一編は、以下のように始まる。
自分が送り仮名を付けたことで却って読み難いかもしれないが、何度か読んでみると口語体にはないリズムの良さや格調の高さ、ユーモラスな表現に笑いそうになるし、声に出して読み上げたくなってくる。
文語体は「文」語体なのに、声に出して「歌」われることを前提としているように感じるが、気のせいだろうか。その辺りの勉強というか、読み込みをもっとしたいと思う。