羨ましい気持ち≪重度障害児子育て≫
障害児の子育てをしていると羨ましい気持ちがどうしても多くなる気がする。
息子には同い年のいとこの男の子がいる。
本当に申し訳ないのだけれど、小さいころは順調にすくすくと成長する同い年の甥っ子の姿を見るのがすごく嫌だった。会いたくなかった。
今となっては比べるのもおかしいくらいの差が出ているからか、なんとも思わなくなった。
ただ、同い年なので、息子が健常児だったなら肩を並べて遊んでいたのかな、どんな遊びをしていたのかなと想像はしてしまう。
息子の7歳年下にも甥っ子がいるが、その子が産まれる頃には私も障害受容ができたのか、成長を気持ちよく見守ることができた。
0歳から1歳であっという間に息子より色々なことができるようになっていくので「もう抜かれた」と笑うことさえできた。
となってくると、羨ましいと思う相手は変わっていき、同じように支援学校に通っている子になってくるのである。
息子よりコミュニケーションが取れる子(喋れる子・ボタンを押すことで意志を伝えられる子)には、すごいなぁ、息子もできるようになったら良いのになぁ、という前向きな羨ましいの気持ちがある。
「どうやって練習したの?」とその子のお母さんに聞いてみたりもする。
でも、もうひとつは、羨ましいと声には出せない羨ましいだ。
息子は支援学校の中でも大きい方。
胸板も厚く、がっちりしている。
肉付きも良く、体重は現在33.7キロ。
息子より学年が上の子の方が小柄で華奢で体重も少ない。
もちろん、順調に成長し体が大きくなり嬉しいことだ。
やっぱり、肉付きがありがっちりしていると、体調を崩した時にもなんとか持ちこたえてくれそうな安心感のようなものがある。
ただ、身体的な介助がとにかく大変なのだ。
つい「あの子くらいだったらひょいっとすぐに抱っこできるのにな。」「あの子くらいなら飛行機での旅行もまだできそうだな。」「あの子くらいだったならお風呂はまだ私1人でも入れられるな。」と思ってしまう。
体が大きくなり、介助が大変になってきたからこそ、介助にすぐに結び付けて考えてしまうのだ。
でも、その子のお母さんは体重が増えないことに悩んでいるかもしれないので、羨ましいとは絶対に言えない。
そして、一番羨ましいと感じるのは、健常児を育てている人だ。
それは健常児を育てているからではない。
あえて言えば、障害児を育てていないから、だろうか。
障害児を育てていると、自由に動くことができない。
例えば、とても融通が利く仕事かフリーランスの仕事でないと、仕事を続けることは難しいだろう。だいたいの人が辞めるか休職する。
子供が家にいるときには、絶対に家にいないといけない。
コロナ禍で外出がままならず、おうち時間になって人に会えず、自宅にこもる日々がとてもストレスだと当時ニュースになっていたが、それを普段からずっとやっていると言えば想像がつきやすいだろうか。
(外出するときは外出するし、遊びに行くときは遊びに行くけれど、コロナ禍前から感染症対策のため、主に冬場はほとんど余分な外出はしない。)
どうしても家族で外出しないといけない場合は息子も連れていかないといけない。医療ケアの荷物を準備したりするのがとても大変なので、どうしても息子の外出はハードルが高くなる。
そのため、夫か私が息子と自宅に残ることが多い。
自分が疲れていても風邪を引いていても、息子が起きていたらその間は起きている。それが夜中であっても。
薬や食事・水分補給の時間になったら、息子が寝ていても胃ろうから注入する。時間が決まっているので、とにかく時間を見ながら過ごしている。
(息子の場合、ほぼ3時間置きに注入がある。)
スーパーに行きたいと思ったときに行けて、風邪を引いたら休めて、自分が選んだ仕事にも行ける、身軽に動ける、時間を気にしなくていいのがとても羨ましいと思う。
この普通のことができるのが、息子がショートステイに行くときのみ。
学校やデイサービスは送りの時間やお迎えの時間などが決まっているため、完全に自由に動くというのは難しい。
でも、障害児を育てていない人だって、大変なことはたくさんあるだろう。
義父から言われたことがある。
「息子がいることで普通の子育てはできないかもしれない。苦労もするだろう。ただ、周りの他の人だって、別の大変なことがある。大変なことが違うだけで、トータルで見ればきっとしんどいことはそれぞれ同じだけあるはず。苦労することが違うだけ。」
子供に障害があるって、結構大変なんだけど。
本当にそうかしら。
でも、そう思っていた方が、少しだけ気持ちが楽かも。
そう思えたので、気持ちがしんどくなったとき、隣の芝生がひどく青く見えるときには、無理やりにでもそう思うことにしている。