映画「PERFECT DAYS」:持てる者たちが夢想する、持たざる者のパーフェクトデイズ
映像も音楽も演技も美しいにも関わらず、もやもやした気持ちがずっと残っていた。そして、東京出身のわたしが、パリの映画館でこの映画を鑑賞したにもかかわらず(なんなら子どものときの友達が映画に出ていた)、まったく郷愁の念が起きなかった。
その原因は、美しすぎることだ。これはそもそも物語の中心に置かれる、主人公が働く公衆トイレが、まったく清潔で美しすぎることに代表されている。主人公が掃除するトイレは、見たことがないほど特別な芸術的なデザインのものばかりだ。そして、掃除をする必要がわからないくらいに綺麗で、使用者が排泄物を出していく場所だとはとても思えないほどだ。
つまるところ、この映画は東京都のPVなのだ。撮影に非協力的で有名な東京都(是枝監督の「怪物」でも撮影協力が得られなかったことに代表される)が、この映画については協力したことから察するべきだったのかもしれない。
そして、そのような美化するような筆致で、孤独な人物、社会から距離を置く人物として主人公を描くことに不誠実ささえ感じる。映画を通じて、主人公の趣味の良さと高潔さがくどいほど描かれる。「古書店」で買った本の読書や「フィルムカメラ」の写真撮影、「自分で神社で拾った木を使った」盆栽、「カセットテープで聞く洋」楽、毎日通う居酒屋と銭湯といったPopeyeに出てきそうな「趣味の良いシティボーイ」がそのまま歳をとったような生活を繰り返す主人公。さらに、柄本時生が演じる粗野な若者を近くに配することによって、彼の仕事に対する真面目さや清貧さを何度も際立てている。彼は、「雨ニモマケズ」並にいつも静かに笑っている。彼は裕福な家庭の出身であるようで、彼が「選択して」この生活をしていることも匂わせてている。
この映画の主人公が嫌にモテることも不自然さに拍車をかける。若い同僚が狙っている女性に突然キスされる。ランチタイムには若い女性にちらちら見られる。スナックのママにはお通しをおまけしてもらい、ひいきをされる。突然家に転がり込んできた十代の姪には母親以上に慕われ、主人公の前で突然着替えようとするくらいに心を開かれる。それなのに主人公は動じる様子もない。この一連の描写もあまりにリアリティがなく、村上春樹を読んでいるかのような気持ちになった。
彼の生活の様子は、少なくとも私が東京で見てきた、彼と同程度の収入水準の人々ができる生活とは異なるものだった。映画において、そのような人々や社会から距離を置いて生きる人物の視点での生活を描くことには大きな価値があると思うが、この映画においてはあまりにもその生活が理想化されているように感じ、そのような人たちの実際の生活や視点を汲み取って描いたものではないと感じた。
日本の大企業のトップが旗振り役となった取り組みをベースに、ヴィムヴェンダース(映画好きなら誰もが知るドイツの巨匠)を呼んだという背景を聞いて納得した。単純作業から最も遠い職種の一つミュージシャンであり大成功を収めたミスチルが歌う「僕のした単純作業が この世界を回り回ってまだ出会ったこともない人の笑い声を作ってゆく」「誰が褒めるでもないけど小さなプライドをこの胸に勲章みたいに付けて」(「彩り」)という歌詞くらい説得力がなかった。人生讃歌というよりは、どんな環境に置かれたとしても、個人の心がけで精神的に豊かな生活ができるという、体制を保つためのイデオロギーを推進する映画に見えてしまった。「雨ニモマケズ」を、恵まれた人たちが提唱するのは、ある意味暴力的ではないのだろうか。
今年のアカデミー賞外国語映画賞の日本代表として「怪物」が出品されなかったことが残念でしかたありません・・
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