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死ぬ時にその人の生き様が表現される
僕が近々東南アジアに飛び立つことを聞きつけてか、最近色んな人から連絡を頂く。数年間連絡を取っていなかった学生時代の友人、あまりお役に立つことが出来たとは思えない(むしろ迷惑ばかりかけていた)上司、就活の時にインターンで偶然知り合った友人、会社の元同期、僕と関わっても向こうには何のメリットもないであろうトップアナリストや起業家の方からお食事にお誘いされることが多い。
僕は自分の過去を振り返った時に自分が人格者であるという認識も無いし、上司・後輩への対応も決して良いものであったとは言い難い。
入社1年目で「これは僕のやりたい仕事ではない。部署を異動させてくれないと会社を辞める」と言いお忙しい中で何十回も面談してくれた本部長、2年目に初めて担当先をもってお客さんに迷惑をかけて何回も尻ぬぐいをしてくれた直属の上司の存在、初めてのプレゼンで大声で魂の叫びを評価して案件をくれたお客さん、インストラクターを任されたのに自分のことで精一杯で放置していたのに勝手に成長してくれた優秀な後輩の存在などがあってこそ今までやれてきただけで、僕の社会人生活の前半は決して人として優れたものとは言い難い。
ちなみに入社1~2年目は自分がどの様な気持ちでどの様な仕事をしていたのかはまるで昨日のことのように鮮明に思い出せるが、3年目に一気に担当先が増加して忙殺されて以降の記憶はまるでタイムスリップしたかの様に思い出せない。
今考えれば絶対に処理することが出来ない量の仕事をどの様にこなしていたのか、どの様な感情を抱いていたのか、何の仕事をしていたのか全く思い出せない。気づいたら20代がほとんど終わっていた。
さて、話を戻すと人生の成否は結局は、収入や社会的地位では言い表せないものだろう。先日ヤクルトの青木選手の引退試合にイチロー選手をはじめ様々な野球選手から祝福メッセージが届いていたが結局はどれだけ多くの徳を積めるかという人間性に表現されると思う。
僕の人生は人より多くの徳を積んだとは言い難い。
それでもキャリアに一旦区切りをつけて新たな挑戦をする時に応援して連絡をしてくれたり、わざわざ会いに来てくれる人がいるということに僕が生きている意味があったのではないだろうか。
死ぬ時に打算や周囲からの目を気にして葬式に来てくれる人はいるかもしれないが、損得勘定なしでどれだけ多くの人が葬式に来てくれるのかというところにその人の生き様が表れるように思う。
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