ぼっち the ランナーのbots!! 日曜午後何するアンケート
ふう。セックスしたい。
このところ「時間の使い方」について考えている。
それは例えば「酒を飲んでいた時間」だったり「二度寝をしていた時間」だったり「20年前の休日の午後」だったり。過去のそういった時間は、今何に充てているのだろうか。
ライフスタイルの変化によってアクティビティも変わる一方、時間は編年体の如く変わらない。
例えば過去、平日は建築労働に従事していたが、今は家でJ-WAVEを聴きながらマンガを描いている。あるいは、祝日はライブ三昧だったが、今は山奥でDIYをしている人もいるだろう。
多くの人は就職、結婚、怪我、病気、家庭環境によってライフステージが変わるが、俺は大学生の頃から変わらない。変わらないというか、見えない頑迷な意志のようなものがあって、変えてないのかもしれない。そのくせ、変わる人はうらやましいと思う。まるで転生やパラレルワールドじゃないか。一生のうちに何度も人生を生きることができるからだ。
休日午後のジョギングタイムは、かつてサウナタイムだった。
サウナブームは星が森へ帰るように自然に消えて、月に一回となったが、銭湯は毎週通うようになった。
ジョギングもサウナもデトックスという点は共通する。両者とも気分がスッキリするが似て非なるものだ。
前者は内省的な雑念を含めて様々な想念が無秩序に去来する。思考が忙しい。夜見る夢に近いかもしれない。
逆に後者はストイックに恍惚をめざす。憂き世から離脱し、身体に意識を集中させる。スポーツ的と言えるかもしれない。
ともあれ、今時間を使っているジョギングは、有酸素運動を伴うしお金もかからないし、いいなと思っている。何よりヤセることが密かな期待だ。
しかしもしヤセたとして、ヤレるのか、俺。なにせセックスの長期放牧休養中NOWだ。N何故ジョギングに代わる時間の使い方は何かと想像したかという事と、浮かんだのがセックスだったのは、きっと自分へのリマインドであり、忘れてはいけないという自己暗示なのだろう。
しかし休日の午後のセックスはどうなのか。シーツを洗いたくなっても午後なので既にその日の洗濯は終わっている。次の日に持ち越すのは避けたい。しかし迷っている時間はなく、午前に干した洗濯物を取り込まなくてはいけないし、夕餉の支度も待っている。
みんないつやっているのだろうか。平日なのか土日祝日なのか。朝か昼か夜か。アンケートをとりたくなる。
0’00’’ / 0km
アスファルトは丸一日分蓄えた熱を放射し夕陽は斜め上から射してくる。マーケティングの世界では、地上と空中、つまり口コミとテレビを制することで、人は無抵抗に消費せざるを得ないとされている。
地球沸騰化なのだから仕方がない。マハトマ・ガンジーのように無抵抗主義を通していると、石油とPM2.5と潮の香りと何か焦げたようなにおいが入り混じった熱風が、眠っていた記憶の封を切った。
20年前の日曜の夕方。
東神奈川と新横浜を結ぶ上麻生道路を自転車で走っている。夕陽に照らされるがままの幹線道路は車ばかりで坂が多い。こんな時にほっつき歩くバカはいない。自転車で走るバカは自分だけだ。ニュータンタンを通り過ぎる。この店は友人から勧められ「うまいじゃん」とコメントしたけれど二度と暖簾をくぐることはなかった。
どこへ向かっていたのだろう。当時は紫外線から身を護る意識もなく、帽子もかぶらず汗だらけ。鳥浜のアウトレットで買ったシャツを着ていたかもしれない。堪らずヒーリングルートに逃げ込んだ。勝手にそう名付けていた裏道は、蛇行に蛇行を重ねていて遠回りになるが松林やお寺がある。日陰というだけで別世界のようだ。ボールがぎりぎり見えるぐらいの青暗い逢魔が時。日暮がカナカナと焦燥感をジリジリさせる。
その景色は、名付け難い怒りや諦念と紐づいている。当時のストレスは何だったのだろう。仕事の事だろうか、将来の事だろうか、金がない事だろうか。
彼女はHMVでバイト中だ。今日は忙しいに違いない。
は!いけない。何か悪い方向へ誘導される感覚が走った。しかし思い出すこともなかったその風景は、他人の人生を眺めるようだ。本当に俺なのか。ぽっかりと断絶感が残る。