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短編 『箱を壊して、触れたくて』

 重苦しい音を立てて到着した電車に乗り込もうとした時、ふと思い出したように自分のポケットを確認した。触ったり叩いたりしてみても、両腿とコートのポケットには何の手応えもなかった。一つ溜息を吐き、電車に乗るのを諦めて踵を返す。どうやら、携帯電話を置いてきてしまったらしい。
 ゼミの講義室でカレンダーを確認するために携帯電話を開いたところまでは、記憶があった。それ以降はおそらく、触っていない。
 改札を逆方向にもう一度通り抜けて、僕は再び大学へと戻ることにした。

 校舎の四階まで階段を登りきり、僕が所属する学科のフロアへ歩を進める。最近は校舎内のエレベーターばかり使っていたからか、目的地に着いた頃には肩で息をしていた。外はかなり冷え込んでいたが、多めに着込んでいたせいか、少し体が火照っていた。
 息を整えてから、つい二十分ほど前まで僕がいた講義室のドアを開き、室内に足を踏み入れる。今の自分にとっては過度暖かい空気が、顔を覆う。
 部屋にはゼミ生も教授も見当たらなかったが、暖房は消されておらず、電気も点灯したままだった。誰かがここに戻ってくるのだろうか。
 そんなことを考えながら、僕は自分の目的を果たすべく携帯電話を探す。狭めの部屋を視線で軽く探っていると、携帯電話よりも先に別のものを発見して、思わず動きを止める。
 それは、部屋の中心に置かれている長机の側にあり、すぐ目に入った。僕の目線が注がれた先に、真っ白で小さめなトランクがたたずんでいた。雪のように透明感があるそれは、何度も手入れがされているのか、汚れの一つも付着していなかった。
 そのトランクが誰のものか、僕はよく知っていた。何故ゼミの講義室で置き去りにされているかは分からなかったが、一先ず携帯電話を探す作業に戻ろうとした。
 けれども、探し物は意外にも早く見つかった。長机の端っこに、僕が置き忘れた携帯電話がポツリと残っていた。
 最後に部屋を出て行った人が後で教えてくれても良かったのにな、と自分のことを棚上げにして、心の中で少し悪態をつく。また溜息を吐きながら長机の角まで足を運んで、携帯電話へ向かって手を伸ばす。
 携帯電話が見つかったことからきた安堵感か、目的を果たしたことで気が緩んだのか、長机の側にあった白いトランクの存在を僕は忘れていた。気がついた時には、踏み出した足がトランクを軽く蹴り抜いていた。
 トランクはゆっくりと倒れ込み、伸ばされたままだった取手と長机の足がぶつかり、軽やかな金属音が部屋に反響する。
 それだけでは終わらず、ロックが掛かっていなかったからか、倒れた弾みでトランクが開いてしまっていた。一瞬の内に起きたことを理解して、すぐさま僕は我に返った。
 中身が飛び出る事はなかったけれども、慌てて閉じて元に戻そうと、しゃがみ込んだ僕は開いたトランクに手を伸ばす。

「え?」

 思わず独りで声を出してしまう。そのトランクの中身を知った僕は、伸ばしていた手の動きを止めて、目を見開く。

「根岸くん?」

 突然背後から掛けられた声が、氷のように動かなくなっていた僕の体を溶かす。反射的に後ろを振り向き、僕は掠れた声で彼女の名前を呼んだ。
「箱上、さん」
 扉から部屋へ入ってきていたのは、黒と白を基調にした派手目な服––––––所謂ゴスロリと呼ばれる格好に身を包んだ女学生だった。
 スカートや袖に付いている黒いリボンとフリルをなびかせながら、僕の元へ近づいてくる。歩く度に、頭の左右に結んである長い黒髪が、交互に揺れる。そして、僕の視線の先で倒れているトランクを見つけて、彼女も目を見開いた。その固まった表情を見てしまった僕は、トランクを倒してしまった時よりも焦りを覚えていた。
 何故なら、そのトランクが彼女の私物だと、僕は知っていたからだ。
「机の上にある携帯電話を取ろうとしたらつまずいて、その、ごめん」
 俯きながら曖昧に呟く僕の声が、箱上さんに届いたのかは分からなかった。彼女は黙って僕の隣にしゃがみ込み、トランクに入っていた物を綺麗に整える。
「いいの。気にしてない」
 小さいけれど、はっきりと聞き取れる澄んだ声で彼女が返す。その台詞が心の底から出た言葉じゃないことに、僕は気づいていた。
「でも、そのトランクの中身、さ」
 俯いていた顔を上げて、箱上さんの顔を見つめる。僕は自分が想像しているよりも、はるかに切羽詰まった表情を浮かべてるんじゃないか、と心配になった。
 長い睫毛の先にある、彼女の綺麗な瞳と視線がぶつかる。底が見えない、吸い込まれそうな漆黒だった。
「ううん、いいの。私はまだ、これを持って来るだけで精一杯だから。トランクを開いて外に出す勇気は、まだないの」
 弱々しく首を横に振りながら、箱上さんは立てかけ直したトランクを見つめる。その顔は寂しそうで、あるいは悔しそうで、前向きな感情を読み取ることは出来なかった。
 狭い一室に、無言の空気が流れる。彼女が何を想っているかは想像に難くなかったけれど、ある提案を思いついた僕は、言葉を丁寧に選んで彼女に呼び掛けた。
「僕は箱上さんなら、もう大丈夫なんじゃないかと思う」
 自分の耳に伝わってきた声は、とても覇気は感じられなかったけれども、間違いなく僕の意志で捻り出されたものだった。
 その態度があまりにも珍しかったのか、久しぶりだったのか、箱上さんは呆気に取られた顔つきだった。黒い洋服に身を包んだ、真っ白な彼女から表情が抜け落ちた様は、それこそ人形みたいだった。
「あの日君が言っていたこと、僕は忘れてないよ」
 もう一度だけ確かな声で、彼女の背中を押してみる。未だに臆病な僕が出来るのは、ここまでだった。
 黙って考え込んでいた箱上さんは、僕の言葉を聞き終えてから、くすりと笑みをこぼした。
「驚いた。根岸くんの方から、また励ましてくれるなんて思わなかった」
 隣でしゃがみ込んだままだった彼女は、再び白いトランクに手を掛け、そっと床に横たえる。
 再びトランクが開かれる様子を見守っていた僕は、あの日のことを思い出していた。

 二年前、今と同じ冬の日に、僕は箱上さんと大学の図書館で出会った。大学に入学して半年以上の時間が過ぎていたけれど、僕は学内で特定の知り合いと一緒にいることは殆ど無かった。どうにかして今の自分を変えたくて、その時期に図書館へよく通っていた。
 その日の講義が終わった後、決まって奥の席で本を読んでいた。読んでいたものは自己啓発に分類される書籍で、自分を変えるアドバイスやありがたいお言葉が載っているものばかり選んでいた。
 通い始めて一週間ほど経ち、必死に読んでいた内容を頭に叩き込んで実践しようと試みていた。けれども、そんな短期間で上手く立ち振る舞える訳もなく、最初からそれが出来るなら、僕は今の自分に悩みなんて抱えていなかった。
 それから更に一週間経ったある日、三冊目を手に取り席についたところで、ふと辞めてしまおうかと思い立った。自分には向いていないんじゃないか、という疑問が心の奥底で芽生え始めていた。もっと良い方法があるかもしれないから、別のやり方を探そう、と自分に言い聞かせて、僕はまだ読み始めてもいなかった本を閉じた。
「その本、読まないの?」
 周りに配慮した小さな声が聞こえて、僕は反射的にそちらへ向き直った。
 僕の隣に立っていたのは、全身が真っ黒な洋服に身を包んだ、人形みたいな人だった。頭や袖、スカートにも付いているいくつかのリボンやフリルが、余計に彼女の存在を際立たせていた。
「箱上、さん?」
 頭に思い浮かんだ名前を思わず呟いた。僕は、彼女を知っていた。
 箱上さんと僕は同じゼミの所属だった。入学した後の顔合わせで初めて会ったけれども、その時も同じような服装だったことを覚えていた。毎週行われるゼミで顔と名前は覚えはしたが、話をする仲でもなかった。
 だからこそ、突然声を掛けられて驚きが隠せなかった。
「その本、読まないなら貸してもらっても良い?」
 急に話し掛けられて困っていた僕に、箱上さんは手を差し出した。雪みたいな掌が、手元の黒いフリルで余計に白く見えた。
 どうぞ、と小声で呟いてから、本を彼女へ渡した。その時に少しだけ触れ合った指から、想像よりも温もりを感じられた。
「根岸くんも、こういう本をよく読むの?」
 僕から渡された本をパラパラとめくりながら、箱上さんが何気なく問い掛けた。
 僕の名前を覚えていたことに少し安堵し、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「うん。自分をちょっとでも変えたくて、最近読むようになったんだ」
 特に見栄を張る真似はせず、僕は正直に答えた。思い返せばこの何でもない言動が、本当に小さな一歩目だったのかもしれなかった。
 あまりにも素直な返答に困ったのか、箱上さんは少し目を瞬かせた後、くすりと笑った。今まで彼女の表情が色づくのを見たことが無かったからか、ほんの少し得した気分になれた。
「本、ありがとう。またお話ししましょう」
 それだけ告げて、箱上さんは颯爽と図書館を後にした。彼女と話せた現実と、さりげなくまた話す機会を約束してくれた事実が心に残ったまま、僕はしばらく図書館の席で呆けていた。
 それから三日に一度ほどの間隔で、箱上さんは図書館にいる僕のもとに訪れた。本を読むのも図書館へ通うのも辞めようと思っていた僕は、毎日同じ時間に図書館で本を読みふけっていた。
 僕と箱上さんが図書館にいる時間は人気が少なく、小声で話をしていても注意する人達もいなかった。そんな環境を良いことに、僕は彼女と他愛ない話に花を咲かせていた。
 そんな日々が続いて何ヶ月か経った頃、箱上さんは自分の格好について、僕に話をしてくれた。
「毎日こんな服装だと、おかしいでしょ?」
 いつもの色づくような笑みは息を潜ませて、彼女は自虐的に微笑んだ。
「おかしいというか、似合ってるとは思うよ」
 考えついた言葉を、僕はすぐに箱上さんへ投げ掛けた。彼女と話す機会が多くなったからか、以前より言葉を考え込んで会話する癖が減っていた。
「それはきっと、根岸くんが見慣れてるからじゃないかな」
 箱上さんは首を傾げて、困ったみたいに笑みを浮かべた。
 そんなものかな、と僕が返すと、彼女はしばらく黙ってから、ポツリと話し始めた。
「私がこの格好をしてるのはさ、きっと、つまらない意地みたいなものなの」
 諦観が混ざった声音で吐かれた箱上さんの言葉は、いつもより重かった。口を挟みたくなかったから、僕は無言で続きを促した。
「最初はね、可愛いと思ってたからこの格好が好きだったの。周りの人たちにも、似合ってるって言われてた」
 髪をまとめているリボンに優しく触れながら、彼女は続ける。
「でも、高校生になったくらいからかな。変わらない服装で居続けていたら、避けられるようになったの」
 小さな声なのに、その言葉は僕の心に重くのし掛かった。箱上さんが置かれていた状況は、想像に難くなかったからだ。僕は腰掛けていた椅子の背もたれに、緊張していた体を預けた。
「親からも言われた。もうそんな服を着るのは辞めなさい、って」
 彼女の親も、きっと意地悪で伝えたわけではないのかもしれない。箱上さんが周りと違うまま、変わらなかったから言い聞かせただけだったのだろう。
「誰からも理解されなくて、周りの人は離れてしまって、結局独りになったの。ただ、着たい服を着ていただけなのに、ね」
 彼女は、上手に哀しく笑っていた。ずっと、その笑顔を貼り付けてきたからか、違和感はなかった。
「気がついたら私にとってこの服装は、可愛さの象徴から人を引きつけない象徴に変わってた。私自身は、変わりたかったわけじゃないのに」
 一通り言いたいことを言い終えたのか、箱上さんは静かに息を吐いた。そして僕はタイミングを見計らって、話の途中から気になっていたことを、彼女に問い掛けた。
「それならどうして、自己啓発の本なんて読もうとしてたの?」
 自分で変わりたくないと思っているなら、あんなものを読む必要なんてない。それでも箱上さんは、僕からあの本を借りることを選んだ。
 図書館の天井を仰ぎながら、彼女は残念そうに応える。
「結局、私自身が間違ってることを受け入れないといけないのかな、って思ってたの」
 その言い分は、大人の意見だった。周りを立てるために、周りへ溶け込むために自分が折れる。真っ当な手段だった。
「だからね、そろそろ普通の洋服で、普通の格好で大学に来ようって決めたの」
 箱上さんが無理して作ったその微笑みを、僕は受け入れたくなかった。珍しく、自分の心に苛立ちが芽生えているのを感じ取っていたからだ。
 僕は少し前まで自分の臆病さが嫌で、変わりたいと考えていた。実際に変わろうと努力した。当たり前だけれども、たった数週間や数ヶ月ではどうにもならないことを知った。
 けれども、変われなかった代わりに、僕は臆病な自分を少しだけ受け入れられた。箱上さんと言葉を交わして、臆病で良かったと思える部分が確かにあったからだ。
 彼女がやろうとしているのは、過去の自分を否定する悲しいことだ。どうして自分が間違っていたなんて、簡単に受け入れないといけないのか。
 それでも自分を捨てて変わろうとする箱上さんがおかしいわけじゃない。それを彼女に強要する常識とか普通とか、曖昧で不確かなものに、僕は憤りを覚えていた。
「箱上さんは、変わらなくていいんだよ」
 とりあえず何か言おうと、僕の口から出たのは、そんな言葉だった。
「だって、僕は今のままの箱上さんが良い。少し近づきづらいけど、話し始めたら誰より優しいのに、変わるなんて勿体ないよ」
 僕が考えている気持ちを全部言葉に載せるのは、無理なんじゃないかと思った。だから不器用ながら、頭に浮かんできた想いをそのまま伝えた。
 顔を上げると、黙ったままの彼女と視線がぶつかった。澄んだ黒い瞳の奥で、今は何を考えているのか、僕には分からなかった。
「もし、それでも私が変わってしまったら?」
 不意に呟いた箱上さんの言葉が、ゆっくりと図書館の天井へ消えた。まるで僕みたいに、臆病な声音だった。
「勿体ないと思うけど、それはそれでいいよ」
 だから僕は、自分の臆病な心を汲み取って、出来る限りありのままの言葉を紡ぐ。
「変わっても変わらなくても、僕にとって箱上さんに代わりはないから」
 二人の間に、静寂が流れた。図書館という場所がそうさせているのか、心地良い沈黙だった。
「あのね、根岸くん」
 透き通った箱上さんの声に、僕は無言で首を傾げる。彼女は座っていた椅子ごと、隣にいる僕の方へ向き直った。
「もし、今の自分を受け入れて、納得して変わる日が来たら、その時の私を見ていて欲しいな」
「もちろん」
 間髪入れずに僕は応える。そんなことは当たり前だ。変わった箱上さんも見てみたかったし、会って話をしてみたかった。
 箱上さんは少し泣きそうな表情を浮かべてから、くすりといつもみたいに笑っていた。彼女の白い肌にも、以前と変わらない色がついていた。
 その日を境に、箱上さんが図書館に来る機会は殆ど無くなった。それでも、学内で会えば僕と話をしたし、一緒にいる時間も多くはないけれど確かにあった。その二年間もずっと、彼女は変わらない黒と白の服を着たままだった。

 箱上さんが開いたトランクから出てきたのは、シンプルなデザインの真っ白なワンピースと、ウールで作られている琥珀色のカーディガンだった。どちらも彼女が着なさそうな、普通の洋服だった。
 箱上さんはワンピースを両手で広げて掲げる。ふと横顔を盗み見ると、その表情に迷いや悩みの類いはなかった。
「ちょっとだけ、外で見張ってくれる?」
 照れ顔を悟られたくないからか、一瞬だけ僕の方へ向き直ってすぐに顔を逸らしてしまった。
 黙ったまま頷いて、立ち上がった僕はゼミ室から外へ出た。室内よりも少しだけ冷たい空気が、肌に触れる。
 扉に背を預けながら、僕はただ待っていた。箱上さんが決心するまで、何分でも待っていようとする心意気だった。この扉の奥で、彼女は何を想っているのか。全部は分からないけど、少なくとも前向きな気持ちがあることは、ついさっき横顔を見たときに感じ取れた。
 彼女にとっての箱を自ら破って、最初に触れ合える相手が僕だったのなら、それはとても誇らしくて、嬉しい。
 だからきっと、大丈夫だ。
 そんなことを考えながら、僕は静かに広間の天井を見上げる。
 五分か十分ほど経った頃、背中越しに軽やかな合図が聞こえてきた。扉を叩いた音だろうか。もたれ掛かっていた扉に向き合って、僕は箱上さんの言葉を待った。
「もう、大丈夫だよ」
 扉越しに聞こえてくる、くぐもった彼女の声が、少しだけ僕を緊張させる。しばらく間を置いてから、ゆっくりと講義室の扉を引いた。
「どう、かな」
 扉の先で佇んでいた彼女は、照れたようにくすりと笑い、首を傾げた。いつも二つに括られている長い黒髪が下されていて、ふわりと揺れる。色合いのイメージは真逆になったけれど、間違いなくそこにいたのは箱上さんだった。
「よく似合ってるよ」
 声を震わせないように精一杯強がりながら、僕は告げる。
 変わる前も変わった後も、どっちも綺麗だった。けれども、まだ臆病が残っている僕はそんなことを彼女へ伝えられるわけもなくて。
 今はまだそれでもいい、と思えた。

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