「インターネット空間が自分の居場所」若者の社会的な居場所と個人的な居場所
「居場所」という言葉を考えた時、物理的な社会的居場所=placeが思いつくのと同時に、精神的な心の拠り所という面での「個人的な居場所」のことにも触れずにはいられない。
おじいちゃんが麻雀サークルに行く、子どもが公園で鬼ごっこをする、友達とHUBでワールドカップを観戦する。これらはある種、共通の目的を持ち、「コミュニケーションを必要とする」物理的な居場所であると言える。
一方で、「私には居場所がない・・・。」という言葉からは、空間的な居場所ではなく、「この広い社会の中で私を受け入れてくれる人(場所)がいない。」という個人的な居場所を指す印象を受ける。
例えば、浜崎あゆみ/A Song for XX
居場所がなかった 見つからなかった 未来には期待出来るのか分からずに
など、歌詞にもなりがちな「居場所」ということはまさに個人的居場所を指すことが多い(当然全てではないが)。そして、「居場所」を語る時に、個人的、社会的な居場所は更に細分化され、それこそが広い意味を持つことの要因になっていると言える。
以上を踏まえ、「インターネット空間」を居場所として認識することについて考察していきたい。前提として、15歳〜29歳の6000人のうち、6割以上が「インターネット空間が自分の居場所」と回答していた。
インターネット空間に想定されるものとして、twitterやinstgramなどのsnsや、youtube、ニコニコ動画などの配信型サービスが挙げられる。
そしてこれらは、リプライやコメントといった形で双方(時に一方的な)でのコミュニケーションのツールになっている。
近年では、「新型うつ」と言われるメディア造語も浸透しつつあり、若者とその他の世代でのコミュニーケーションの在り方も変化している。
社会の変化において、人間同士の関わり方として強固な繋がりである「ストロング・タイズ」よりも、たまに顔を合わせるという「ウィークタイズ」の重要性が増してきたと感じる。若者がストレスに弱いのではなく、ただの変化であると感じる。
更に今回は、インターネット空間にインターネット空間に居場所を見出す、もしかしたら顔も知らない相手との関わりが自身の落ち着きに一役買っているケースである。
もしかしたらウィークタイズを越えた更に緩い「ルーズタイズ」という概念にまできているのかもしれない。
顔も名前も知らない繋がりというのは、良くも悪くも発言の責任が薄れ、当然完璧なコミュニケーションとは言えないが、心的ストレスを緩和してくれ、どこかで他者との繋がりを感じられるという点では立派な居場所になり得ると思う。
いずれにせよ「居場所」とは、他者に強制されるものではなく、自分からの好奇心、興味、好きなものに惹かれて進んでいく末にあるものではないだろうか。