見出し画像

『みんな大好き 牛丼の吉野家 編①』

   「牛丼ひとすじ〜♪80ね~ん♫ やったねパパ明日はホームランだ」のcm、覚えてらっしゃる方は俺と同年代、50歳以上になりますかね。今回のバイト話は、その『牛丼の吉野家』で、先のcmが流行った少し後の80年代後半のお話。
    塾講師編にてチラッと書きましたが、仕事のもらえない塾からのギャラでは、バブルな時代の大学生のお遊びには、賄い切れなかった。そこで、       今となっては覚えていないが『アルバイトニュース』か『FromA』で近所のバイトを探した。
   当時通い始めた大東文化大学が、埼玉県東松山というところにあり、山の斜面に校舎を並べていた。教室によってはドアtoドアで2時間半かかっての登校となっており、往復5時間。途中の乗換駅の池袋なら、バイトはいくらでもあったのだが、その所要時間を考えると地元まで戻っでガッツリ働いたほうが効率が良いと考えた。学校無い日でも通いやすいしね。
     前回は初めての履歴書でしたが、今回は始めての自分からの応募。忙しくなさそうと思われる、昼ピーク過ぎの時間帯を狙って、直接店舗に電話をする。
    当時のバイト誌は、東京版等地域ごとに冊子が別れていて、さらに中で
・ガッツリ稼げる
・学校帰りに
のような目的別なインデックスがついていて、希望の職種からページを開くと、その中で地域が特定の順番で並んでいた。地元江東区は都内でも新宿、池袋、渋谷辺りとは比べ物にならないくらい少なかった。とは言え、今の時代はもっと少ないのかな。
    そうそうそれでね、それらのバイト誌には、募集要項のほか、いろんなバイト関連の記事なんかも掲載されてて、バイト面接の心得とか、マナーとか、そんなのも書かれていた。「忙しく無い時間を狙って」などはその辺りからの知恵でした。
    緊張しながらの電話、携帯もない時代。雑音が少ない場所の電話ボックスを選び、メモ帳とペンは電話の上に置いて準備OK。折り目をしっかり付けて赤マルしてある、吉野家西大島店に電話をする。アルバイトの応募の旨伝えると、電話口の人がそのまま対応してくれた。都合の合う面接の日程を決めて、電話は終了。向こうが手慣れたもので、こちらの緊張による滞りもなく、あっさりなものでした。
     後日、学校が昼過ぎに終わる日に面接日を合わせていた。15時頃だったかな、都営地下鉄新宿線の西大島駅、地上でいうと「明治通り」と「新大橋通り」の交差点にある店舗に行く。ドアの中へ入り、コの字型のカウンター内で作業していた人に、バイト面接に来た旨を伝えると、奥の厨房から、元気良さげな店長らしき人がニコニコしながら、トーンの高い声で「っあ、ムサシくん?すぐ行くからちょっと待っててね」と。スタッフに何やら指示を出したあと、厨房の奥にあるドアから出て、外を回って俺がいる近くのドアから入ってきた。「おまたせ、じゃ上で」と横の階段を先に上がっていった。2階にもコの字型のカウンターがあり、この時間は使ってなかった。その角の辺りを指差して「その辺に座って待ってて」と言い、更に奥の扉の中に入っていった。たぶん30前後くらいの歳かな、背が高く(180cm台半ばくらい)ゴリゴリではなかったがTシャツから出る腕は筋肉質な人だった。一緒に働き出した後に気付くが、この年齢にありがちなビールが下っ腹に溜まっちゃっているタイプだった。名前はもう覚えていないので、仮に村上店長としておきます。
    面接は特に何ということもなく、あっさり合格のようで「いつから入れる?」と。2〜3日後の入れる日で初日が決まり。
    制服は黄色とオレンジ色の間くらいのTシャツを貸してくれるとのこと。下は黒色のものを自分で用意してくること。
次の日以降のバイト希望を2週間分、紙に書いて提出してください。
その時言われたのは、そのくらいかな。
・時給630円(22時以降は25%アップ/研修中は580円だったかな?)
基本シフト
昼   8-17時
夜   17-23時
深夜    22-8時
のような感じで、そこにある程度準じたかたちで希望を提出。
研修終了後(30日出勤後)希望シフトは、
   勤務時間枠が横で、従業員の名前が縦に書かれているシフト希望表があって、希望を2週間先の分を2週間毎に書き入れるようにと教えてもらう。コレをもとに、店長が必要人員に合わせて確定したものが、奥の扉の中、従業員の控室の壁に張り出される。というシステムだった。アナログだね。今の時代は、各自のスマホから共有のサイトでってのが、当たり前だもんね。
    ちなみに当時は、そんなアナログなシステムだから、ある程度、出勤希望状況が出されたのをみて「っあ、あの人が居るから、シフト入れよ〜。とか、入れるのやめようとか」なんてギリギリまで、様子見て希望出す人もいたようだった。

    村上店長の他、バイトではあったが週5とかでレギュラーで入っている人が2人いた。
    明らかに昔ヤンチャしてましたの、リーゼントヘアの秋本(仮名)さんと、
クラッシックギターを演っているミュージシャンの高野(仮名)さん。ふたりは20代なかばくらいだった。
    この2人と村上店長の3人が基本軸で、どの時間帯も必ず誰かひとりが中心に店を回せる状態になっていた。
    村上店長は、客前仕事は手際良いのだが、本部への提出資料や発注などのデスクワークが、あんまり?・・・なようだったり、メンツ不足の穴埋めで、連勤が続いてたりな人だった。ある深夜のこと、2人回しの店舗体制の際に、他メンツに任せて店長室にこももって事務仕事をしていた。その後、店舗が手が回らないからと内線鳴らしたが出てくれなくて、やっと手が空いて見に行ったら寝ていた。という事件?があり、一緒に仕事はいるとヤバい事になる。という噂がまわったりした。
    秋本さんは悪い人じゃないが、見た目同様に口もヤンチャで、指示の言葉もキツい感じ、そっち系に慣れてないタイプは苦手だったかも。
    高野さんは、黙々と仕事こなす職人タイプで、言葉数は少なかったけど結構厳しい人で、目で指示や指摘するようなタイプ。
   他のバイトさんたちは、それぞれに苦手だったり、大丈夫だったりで、選り好みしてシフト入れてたようでした。そんな派閥的なのもあったのかな? そんな事もよくわからない俺は、テキトー系もヤンチャ系も職人系も、今までのバイト歴のおかげ?で、特に問題なかったのでシフトも自分の入りたいところを、気にせずにガッチリと申請していた。
    それに村上店長は気をよくしたのか、ちょうどよい奴が入って来たと思ったのかはよくわからないが、ほぼ希望通りのシフトで入る事ができた。希望シフトが通らなくてグチってたバイトもいた。
    
    当時の吉野家は、今のようなそのまま本部と繋がっているようなレジなんて無くて、お金を入れるところがあるデカい電卓のようなものだった。損なわけで、レジ打ちは基本なし、
お客様からの注文は伝票に手書き。
オーダーは大きな声で厨房に通す。
会計は暗算で。が基本。
    厨房へのオーダー呼称や順番にもルールがあった。
    並(ナミ)◯丁 大(ダイ)◯丁 皿(サラ)◯枚  大皿(オオザラ)◯枚  汁(シル)◯杯 玉(ギョク)◯コ新香  (シンコ)◯枚  の順たったかな。あとご飯だけを白(シロ)って言ったっけ。数字も「イッ丁」と「ニ丁」は聞き取り間違いのもとになるから、1は「イッチョウ」のままだが、2は「フタチョウ」などと「2=ふたつ」呼びを基本とされていた。
「オネガイシマス    ナミイッチョウ、 ダイフタチョウ ギョクフタコ シンコイチマイ」といった感じ。これ書いていて思い出したけど、まだなれない時、フタチョウと言わずニチョウと通した時の、高野さんにジロッて睨まれた時の目、今だ鮮明に覚えててビックリです。
   さらに慣れるまで大変だったのは、そのオーダーを通したうしろに、今入っているオーダーの合計(都合と呼んでいた)も通さななければならなかった事。玉子などのサイドメニューは基本カウンター担当業務になるので、厨房へのオーダー後自分で出すため、そこは数えない。なので「お願いします 並1丁玉1個 都合並3 大3です」といった感じになる。これなかなかでしょ?自分以外にも注文取っている人がいたら、その通したオーダーも覚えたうえで、出されたものもマイナスカウントしなければならないわけ。
    ちなみに『注文の品は30秒以内にお客様の前に提供が吉野家の鉄則』と教えられていたので、秒刻みで変化する『都合』も瞬時にカウント変えていかなければならなかった。秋本さんから『コンちゃん、今の都合は?』と確認されてたなと思い出したけど、当時よくそんな事出来ていたなと感心するわぁ。ちなみにコンちゃんは俺のこと。「下の名前がコウジなのでコンちゃんね」と結構始めの頃から、そう呼ばれた。他にそう呼ぶ人はいなかったが、秋本さんはずーっとそう呼んてくれた。なんか先輩からそういうふうに呼ばれるのも、親しく思ってくれてるようで、悪い気はしなかったな。
     
    そんな感じで、少しづつ吉野家時間が濃くなっていった。

そんなわけで、この後の奮闘記?は
次回
『みんな大好き 牛丼の吉野家 編②』に続く。

     


いいなと思ったら応援しよう!