『海外駐在という語感にのせられて 水産会社編①』
社会人2年目の春、前回記述の通りそれなりの思いで入った会社を、あっさりと辞める事に。実家に戻りフラフラとすることひと月ほど。いい加減、業を煮やしたかは定かではないが、親父からあらたまっての話がなされる。
「チリでウニの加工をやる計画があるので、現地行ってみるか?」とのこと。
他の会社との合同事案でチリで採れるウニを現地で日本向けの加工〜いわゆるゲタと呼ばれる木の板枠に並べるパッキングをして出荷する仕事。その現地からの連絡と商品管理をする人間を探しているとのこと。半年とかそれ以上の駐在、事業が軌道に乗れば何年もという話。それなりに信頼できる人材を探しているようで、一緒にやる他の会社の方から提案されてのオレへの指名となったようだ。
カッコつけてすぐに返事はしなかったが「面白そう、海外で仕事とかカッコいい」って仕事であるにも関わらず、深くも考えずに浮かれていたのは間違いない。そんな気持ちなので、程なく「OK」の返事をした。高校生の頃から何度となくバイトで携わりながらも、親父と一緒に仕事することへの抵抗感などから、その道には進まなかった水産業界へ就職することとなった。
当初は準備整い次第、渡航という話であったが、そうそう話はうまく進まなかった。新規事業の立ち上げなんて、そんなものだろう。夏頃にはという話がズレにズレて水揚げシーズンが云々となり、結局は翌年の春から、という話に。では一旦職を離れて来春から〜でもよかったのだが、なんとなくそのまま親父の会社で働き続ける事に。ちなみに会社といっても、それまでは親父がひとりでやっていた会社。
仕事内容としては、簡単に言うと『水産ブローカー』という、一聴するとちょっと怪しそうな響き。分かり易く言うなら、大手でいうと『マルハニチロ』や『東洋水産』などが有名ですかね。その他、大概の総合商社の食品部とかには水産部門というものがあり、国内外の水産物の売買や水産加工品の製造、その他水産事業関連の企画などを事業としている。そこで行われている仕事を個人でやっている会社だった。なので、買い付けから販売までを個人で、ということはほとんどなく、ほかの個人の会社や、中小の会社が、それぞれの得意分野を繋げて、1つの商品を作り出していく、とか、大手の下請けだったり、そのさらに下の孫受けだったり、さらにその下とか。ではその親父の会社である『東武水産株式会社』(ちなみに某東武グループとは一切関係はなく“東京の武蔵〟だからそういった社名にしたとのこと)が、具体的にどのような仕事をしていたかというと、主に貝類や、魚卵などの売り先をいくつか持っていたので、その方面での仕事が多かった。そういった小さい会社の横のつながりが多数あって、時にはグループで絵図を描いて流れを作る事もあった。ただし、こういった多数の会社が絡む仕事はそれなりの金額を動かすこともあるが、その反面利益率は低くて、純利2%や3%なんていうのがザラだった。なかなか渋い仕事でしょ。でも大手ではそんな利益率での仕事はしないので、親父の会社のような小さなところが〝かすめ取る〟部分があったわけだ。で、オレがそこでどんな仕事をして、チリ行きまで過ごすことになったかというと。
一緒に仕事するようにはなりましたが、以前何処かで記したように昭和の頑固親父でして、水産バイト編で書いたように業界的には人格者のようではありましたが息子に対しては厳しいと言うか、何をしろとかの支持らしい指示は無く放り出されたと言うか。なかなかどう扱ってよいかも迷っていたのであろうフシはあったようで、まぁあとから気づく話なのですがね。当時はそんなことは知らずで、はじめの頃は、付き合いのある会社に連れ回され、商談だか?雑談だか?なんとも言えない御用周りに、新人紹介兼ねて連れ回されました。そこで、オレは挨拶以外何も話す事もできず、適当に愛想笑いをして帰ってくる。一通り紹介が終わると「ひとりで行ってこい」となり行くわけですが、特に何か商材やネタを渡されるわけでも無かったので、相手してくれるのは、ホント最初だけ。まぁ仕事ネタを持っない若造なんて煙たがられるだけなわけですよ。
そもそも水産業界の、その中の個人の会社の金の稼ぎ方なんてもの、先ほどちょこっと書きましたが、仕事始めたての当時のオレは右も左もわからない状況。社長=親父はこうしろああしろとか教えるタイプではなかった、やってる事みて覚えろ、ってのが一番近かったかな。ロープレゲームでいうと、最初のステージで何やってよいかわからず、まぁそれでも何度も通ううち、親父に恩義ある人とか、なんとなく仲良くなった同世代とかが、少しづつ仕事の話をしてくれるようになっていった。まぁどの仕事の営業も、大概そんな感じだよね。ただ知らない業界で、相場感やらも甘く、またこちらからの手持ち商材がないままの来訪はキツかったな。でも、続けるうちに豊洲の倉庫に冷凍の〇〇があるけど、売り先あったら1キロ〇〇円で卸すけど、やってみる?なんて話も貰えるようになり、自社に戻り親父に言うと、その値段じゃ買ってくれるところなんて無いな。と一蹴されることもしばしば。そうそう美味しい話は簡単にもらえなかったね。
そんなこんなで冬なる頃には、学生バイト時代に関わった年末商材販売に絡ませてもらうことができて多少〝仕事〟らしいことはできたが、一人前の仕事には程遠いままだった。そのころから来春からのチリ産ウニの事業の話が、じわじわと固まり始める。
その一方で、親父の下で働くようになったからと、元来のふざけた性格が一転して真面目に生活するようになったかというと、そんなことがあるわけないわけで。まぁ月~金曜9~17時と土曜の午前の定時(この時代まだ土曜の半ドン出社あったんですよ)の仕事中はある程度まじめに仕事してました。ちなみに出社時は一緒に行くことはありましたが、退社時は何かしら用事作って時間ずらして帰宅。仕事に影響ないくらいの朝帰りなんかも。学生時代の友人と飲みに行ったり友人宅に入り浸ったりね。週末は土曜の午後から日曜の夜中までは家に帰ることはほとんど無かったな。
そして冬になったわけで、インチキラクター時代の仲間たちと毎週末スキー三昧でした。苗場にマンションの部屋を持っている友人Hゆきがいたので、基本的にはそこに集合。土曜の昼過ぎから出発する車に乗せてもらい山に向かう。ちなみにその部屋は8畳と6畳と小さめのキッチンの2Kという間取り。そこに多いときは14‐15人ぐらいで雑魚寝なんてこともあった。インナーや着替え以外のスキー道具はほとんどその部屋に置きっぱなしにさせてもらっていたので、車出してくれる人の都合に合わせてのピックアップ場所への移動も手軽にできた。家から出る時もたいした荷物持っていかないのでスキーに行っているかどうか、帰ってからの洗濯物見るまで分かっていなかったかもしれないかな。
前シーズンの冬季オリンピックでモーグルが正式種目となっていた。もともとの派手好きで目立ちたがり屋な性格と、そこそこ基礎スキーで磨いた腕に自信があったこと、さらに仲間連中も同じ感覚だったものだからこのシーズンころからは、コブ斜面ばかり滑っていた。さらに勝手にコースの脇にジャンプ台を作ってエアメイクと言われる飛んでポーズを作る練習なんかもしていた。だからと言って俺が上手かったかというと、まぁ滑ることは問題なかったが〝モーグル〟的には並かそれ以下レベルだったかな。ただ大人数で派手に滑ったり、その滑りをビデオに撮って編集したりなんか現在ならTikTokかYouTubeなんかにアップしそうなものまで作っていた。これは仲間で観るようでもあったけど、実は大人数で滑っているのが、そこそこゲレンデでも目立っていたのでスポンサー付けてウェアや道具を提供してもらえないかと画策していたんだよね。あるブランドから板の提供の話があったんだけど、自分らの好みの板じゃないからと結局契約しなかったんだよね。契約は契約でしていろいろうまく引き出させてもらえばよかったのに。考え方が生意気な若造だったね。
チリ行きの話も順調に進みながらも、毎週末のようにスキーを堪能。そんな冬生活が過ぎて春になる。『4月の半ばにチリ行き』の段取りが組まれる。チケットの手配も用意済、90日以内ならビザなしでOKなので、とりあえずは行くだけ行こうと。現地での滞在先の手配も済み再来週には渡航という形になる。ウニ加工の知識もそれなりにインプットし、半年ほど英会話のスクールにも通っていた。準備はできていた。ただこれが行ってみないと・・・というのが現地の情報をくれているコーディネーターの言っていることが、どこまで信用してよいのかの確証が取れないとのこと。
海外事業あるあるだとは思うのだが、この手の現地コーディネーターは日本人が多い。そして往々にして怪しい。この人との繋がりは共同で事業計画している親父の信頼しているビジネスパートナーがやり取りしている。何とも言えない絵図だけど、現地でウニが採れている情報は他からも取れている。とにかく行ってみなければ本当の状況が分からない。というそれなりの歳を取った今考えても、ギャンブル臭が感じられる話だわ。
そんな中、この話のハナからの心情である「海外駐在ってかっこいいかも」っていうノリだけでウキウキしている俺。そこまで深く考えもせずに
「再来週にはチリだから今シーズンのスキーはこれが最後だな」との浮かれた思考のもと、苗場に向かった。天気も良くやや暖かめの春スキーに気持ちも浮かれ気分、自分的には今シーズンの滑り、そして毎週遊んでいるこの仲間連中とも暫く会えなくなるからとテンションアゲアゲな心情。
苗場大斜面と呼ばれるコブコブのコースを滑り終え下段でほかの仲間が下りてくるのを見ながら待っていたところだった。斜面に対し体に右側を山方面にしての横向きで待っていたのだが、仲間の一人が勢い余って止まり切れずにこちらに向かってきた。ハッと思ったが間に合わず彼は俺の背中のほうに向かって来て俺の左足を払い飛ばすカタチで転んで止まった。そのカタチが良くなかった。左足を払い飛ばされたが右足が残ったせいで、右ひざが内側に『グキッ』と音を立てて曲がった。全身に周りの雪よりも冷ややかになるような悪寒が走り抜けた。
「ヤバい・・・・・・」尋常じゃない感覚。高校生の頃に部活のラグビーで鎖骨を折ったときと同じような脳への信号を察知。そこから緩い斜面の迂回コースを左足一本で滑り降りてプリンスホテルに併設されている医務室へ。受付にて開口一番「保険証持っていない場合は実費の清算になります」と言われて、怪我してきているのにそこより先に保険証の話?ってムカついてその場を去ることに。自分なりの診断では骨は折れていない、動かさなければ痛み自体はだいぶ落ち着いてきた。ただ膝を立てて少し動かしてみると内側にいってはならないほどズレる?感覚があり、その時に激痛が走る。とにかくその方向にずれないように、がっちりテーピングしてそのまま下山し帰宅。
さあ、問題はここからだ。10日ほど後にチリ渡航なわけだが・・・。
友人の車で送ってもらい自宅に着いたのは夜遅く両親はすでに寝ていた。テーピングが効いていて自力歩行も何とか可能、膝がズレない限りは痛みもひどくはない。何とか2階の自室に行き、とりあえず寝てしまおうとちょっと現実逃避。朝起きて痛みも引いてきたら問題ないかも?なんて思いながら・・・。
が、話はそんな甘くなかったわけで。翌朝起きると膝のテーピングの圧迫感が増していた。テーピングをいったん外すと明らかにひざ内側にかなりの腫れが見られた。これは隠しきれないと腹くくって、食卓にいた親父に報告。さすがに激怒されたが、すぐに呆れ顔と困惑顔が入り混じった顔つきに。とにかく医者に行って経過を報告しろと。仕事のこと考えると平静保たねばならなかったのだろうと、今なら痛いほどわかるはなし。
通常なら徒歩5分もかからない、ガキの頃からお世話になっている整形外科に倍くらいの時間かけて歩く。すでに近所のジジババが集会場のように集まっている待合室。順番通りなら2時間は待たされそうなところだが、ここは昔からの付き合いか、すぐに診察室とは別のドアから呼ばれて裏ルートで先生のもとへ。
一通り触診などした後、呆れ顔で
「この状態で苗場から帰ってきて、さらに歩いてここ来たの?」と言いながら太い注射器を用意して、右膝の皿の内側下あたりに刺す。吸引し始めると赤みがかった灰色というかなんとも言えない色の液体が吸い出されてきた。
「これは血と体液が混じったもので、これだけ出てるってことは〝靱帯〟が裂けているのは間違いですね。普通なら歩くこともままならないハズなんだけど、歩いてきたかぁ」と神妙ながらも苦笑い。
「すぐ入院の準備してください。手術して〝内側靱帯〟を補強しないと、歩いているだけでもなんかの拍子に膝が内側に入ってしまい、神経に触って激痛はしるよ。入院1ヶ月くらいかな、さらに1ヶ月松葉杖ってとこかな」とベッドも空いているとのことで即入院。
すぐに親父に連絡。激高覚悟だったが、沈黙の末に「わかった」と一言。普段から怒りがちな人の沈黙はかえって怖いものだったな。
そんなわけで予定通りのチリ行きは無くなるわけで、この先どうなることやら・・・。
水産業の話だかスキー話だかな感じでしたが、今回はこの辺で。
次回
『海外駐在という語感にのせられて 水産会社編②』
に続く。