窓際のおっさん6 やりたいこと信仰 やりたいこと強要
会社にいると色々ある。どうにもならない事ばかりで、禄を食むためだけにひたすら受け流して暮らしている。時には反撃してみたり、動き回って相手を撃ち落とすこともあるけれど、会社全体としては何らプラスがない。それでも一筆積み上げれば、誰かの一遇は照らせるかもしれない。そんな想いで今日も筆を取る。
やりたいことを仕事にする人生が大いにもてはやされている。だがやりたいことがハッキリしている人は良いが、40、50代になっても、我々の大半は仕事を通じて未だにそれを見つけられていない。
それは劣った考え方か。そうではないと思う。誰だって一生懸命生きている。好きを仕事にできたら幸福だろうが、そうでない大半の人だって幸せに生きられる。
今日は、やりたいを仕事にする。あるいは仕事でやりたいことを標榜するという考えについて、考察していく。
<やりたいを仕事にできた人間が何人いるというのか>
ある職業に就きたくて念願叶ったが、思っていたのと違っていた。好きでもなかった業界だが、結局そのまま色々あって10年やってる。単に待遇がマシだから選んだ。実際仕事なんてこんなものだろう。
やりたいことを仕事にする生き方を礼賛しても、叶うのは難しく、殆どの人が納得いかない現実を受け入れ、必死に生きているのではないだろうか。
ある仕事を、色々捨ててでもやりたいと情熱を持ち続けられる人や、エネルギッシュな起業家のように次々と新しい事業に飛び込んでいく人、学校選びから就職・社会的成功まで望んだ選択肢一本だった人、そんな人間はほんの一握りだろう。
世の中それが真実なのに、やりたいことを仕事にしていない人を無為に批判するのは個人を生き辛くするだけではないだろうか。
<仕事でやりたいことの標榜を迫られ、それが無ければ叱られる理不尽>
10年ぐらい前、おっさんが言われた罵倒で、印象に残っている言葉がある。
「もう30やで!? やりたい事一つないなんて大人としてみっともない!」
かつてボランティアで所属していた〇〇士の技術者の集まりで、とある大学講師(女性)に怒鳴られたときの言葉である。
おっさんはこの時点で正社員として5年務めており、怒鳴った人もそれは知っていた筈だが、その専門が「別におっさんのやりたいことではないよ、そんなに期待されると辛いのです」というだけでこの有様である。
就職氷河期に就職決めて真っ当に生きて、やりたいことじゃ無いよと言っただけでこうも叱られる筋合いもないものだ。
「じゃあなんでこの会に参加してんの?」
とも言われた。技術は好きではないので、逆に好きになりたかったというのが理由であったが、理解されなかった。
いずれにせよ「真っ当な社会人は、やりたいことを仕事にしている筈だ」と言わんばかりの詰問である。
<やりたいことをやっているのだからと、それを理由に不遇を押し付ける>
こんな世の中である。不本意に選んだ仕事を、自分なりに好きになろうとする努力は、現代こそ無駄と言われかねないが、氷河期のおっさんの世代ならある意味生存戦略でもあった。
だが仕事に前向きになったなら、今度はそれを理由に意欲ありとみなしていらない責任や負担を負わせてくる罠が待ち構えていた。
そんなもう一つの体験談をする。上記と同じボランティアでの話。
おっさん「ボランティアですよ? しかも皆さん私より立場上で、有資格者じゃないですか。なんでよりによって無資格で下っ端の私が責任者なんです?」
委員長「コンゾー君は自分からこの組織に入ったので覚悟しているとみなします。」
おっさん「じゃあ辞めますと言ったらいいですか(笑)? まあ確かに会社の命令で来ている人も結構多いですけど、逆に会社の看板背負っている方が責任があるんじゃないですか。」
委員長「彼らはあくまで会社がなければ来てない。意欲の上ではコンゾー君があるとみなしていいと思う。」
おっさん「私は何度も公言している通り、そんなに技術が好きではないのです。技術系の考え方、業界でうまくやっていく方法、そんなヒントを得られればと思ってここに来ているんです。 本筋の意欲は有資格者の方があるのでは。」
委員長「やりたいことじゃなかったの? 〇〇士の資格取得のためのトレーニングになるし、今後やりたいことのためにもウンタラカンタラ。。。」
おっさん「資格のトレーニング関係なくないですか?」
結局話は平行線だったが、意欲→やりたいこと→責任や負担、と理屈で結びつけようとするこの考え方はどうにも卑劣に思う。
まして引き受けた後のメールや報告文に係る礼儀などの指導、資格を取るためにはこんな表現にせよといった無用な指摘は、こちらの心情を無視されていてたまらなく迷惑であった。。。
このようにやりたいことの標榜を組織の構成員に求めるのは、強引な合意形成、責任転嫁という卑劣な動機にあるのではないだろうか。「やりたいことを仕事に」と言う言葉は、近年は完全に支配のための方便に利用されている。
<専門職でも好き嫌いや意欲は別>
おっさんは専門職である。専門職は就職がやや容易な反面、勉強も必要で制限も多い。故に専門職は好きで専門職になったと思われるがちである。
だが、専門職でも自分の仕事が嫌いな人は珍しくない。にもかかわらず、人を支配したがる連中というのは、専門職はモチベーションが高いと思い込み「やりたいこと」の標榜を求め、過剰な期待と責任を押し付けたがるように思う。
またおっさんの知る専門家集団は、下手に一つの価値観を信奉(〇〇士取得、〇〇会所属、ものつくり礼賛など)させ、それを前提とした「やりたいこと」語りをさせる節があった。「君○○に興味あったよね」と、ことあるごとに脇腹を突かれるような状況になるので、うんざりしてしまう。
やりたいことと専門性だけでなく、やりたいことと専門資格を抱き合わせにしてくるケースもある。しかもそれが「名称独占」資格なのだから排他的宗教団体と同じ、思想の統一を狙ったムーブを感じないわけにはいかない。
実際、おっさんの知る○○士の集まりでは「資格に対する忠誠を持つことが必要」とハッキリ言う人もいた。忠誠を誓うのは自由だが、誓わない自由だって欲しい。これで健全な職能専門家集団と言えるのだろうか。
専門性や資格と、やりたいことを結びつけることは、仕事上の意識付けとしては一見合理的かもしれない。だが「名称独占資格」に「忠誠心」ときたら、よもややっていることはただの「絵踏み」である。思想の自由がなく息苦しい。
このような背景もまた、やりたいことが無いと言いづらい雰囲気を作り、本当はやりたいことなんてない人達を追い詰めてしまう所以の一つであると思う。
<やりたいことから離れて自分の人生を取り戻す>
このように「やりたいことを仕事に」と言う考えは、もうずいぶん前から、やりたいこと信仰、やりたいこと強要という労働者支配のための思想に堕落しているように思われてならない。
やりたいことがあり、それを仕事にできるのは尊い。だがそうで無い人間を下に見たり、無理に同じ目線でやりたいことを探させ、標榜させるのは無理がある。
かつてはそうした支配体制が効率的な組織運営だった可能性もあるが、社会の沈滞期に入って久しい今は、反発と諦めばかり蔓延する状態を作っている。
一方で、人間の活動は仕事だけではない。やりたいこととしての趣味、家族、社会貢献、思想の拡散、勉強、色事、レジャー、スポーツ。それらを満たすためにやりたくない仕事にも精を出す。それで十分なはずだ。
また、どうしてもやりたいことを仕事としたいなら、昨今だとリスクも少なく、より柔軟に働ける複業的発想の方が辿り着ける可能性が高いと思う。
世情にあてられて無謀な起業に走ったり、やりたいことがないことを悪く言われて悩んだり、変にやりたいことを意識して部下のモチベーション管理に悩んだり。そんなことはもうよそう。
自分のやりたいならともかく、世間のやりたいこと信仰に支配されたのでは、人生がもったいない。
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