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彷徨うおっさん164 キラキラした女子なんてもうやめちまえ(前編)
再び兵庫県知事の件で、今度は公職選挙法違反が疑われている。どっちが悪いか正しいかは置いておいてこんな事ばかりだな。
それも選挙で広報活動をしたキラキラ系企業女子が収賄だとか買収だとかの可能性がどうとかいう話である。
疑惑の内容もやれやれだが、再び懲りずに個人の人格否定になっている報道やネットの書き込みが目立つ。
何が真実でどっちが悪いにせよ、今後再選挙になろうとなるまいと、何人他人を不幸にして、どれだけ世間を騒がせ、政治を止めたら気が済むのか。そして本当に政治に関わると碌なことにならない状態にあると、頭が痛くなったところである(でも民主主義国家なので、なんとか参加し、正しく判断しないといけないのだが)。
とはいえ、今回の件とは全く関係なく、所謂キラキラした生き方を肯定し、志向するのは如何なものかと、「キラキラ系企業女子」という単語を目にして改めて思う所でもあった。
今回は「キラキラした女子なんてもうやめちまえ」と題して、昨今のキラキラ女子の有様について、おっさんの体験を交えながら、考察していきたい。
■ 輝いているのが良いことなのか
毎度天邪鬼な論考に思う方も多いと思うが、あえて続けよう。輝いていることが本当にステキなことなのか、先ずはもう一度よく考えて欲しいと思う。
オシャレめさるなの論考でも述べたが。。。
見た目を先鋭化させることは悪いことも多々ある。
目立つ、嫉妬を買う、競い合って本質より外見になるといった本人へのデメリット。醜い者たちがそれだけで理不尽に除外される、おしゃれさんが周囲に無意識に要求レベルを上げる、モテがどうのと評価基準が本質と挿げ変わるといった社会へのデメリット。
まあ色々な側面がある。
誰にも見向きもされずとも平和に慎ましく生きる。他者と競ったりアピールをするのではなく、地味に自分の世界を極める。
おっさんはそうした生き方こそがむしろ好ましいと思う派であるが、そう考えていても他者と関わる度に、輝きたい、輝かなければならないという価値観でジャッジされると辛くなる。
キラキラは一つの価値観に過ぎないものであるのに、成功するためには、起業するためには、モテるためには、幸せな人生を送るためには。。。etc、キラキラした自分であり続けなければならないという、自己顕示欲の強い人だけが望む世界に傾いているように思う。
だが強い自己顕示欲には足元をすくわれることもあるし、他者の評価に常に思い悩むことになる。なんとも生きづらいことだ。
■ 輝きと荒みが対を成してうねるSNS
また、近年はそうした価値観に基づき、キラキラした日常を自らインスタグラムに垂れ流す者が多々いる。するとリアルの対話だけではなく、ネットやニュースを通じても、多くの人がキラキラに対して嫉妬や劣等感に苛まれるようになる。
X(旧Twitter)は、罵詈雑言の数々が飛び交う対照的なSNSとされており、インスタグラムと比較されることが多い。SNSにもイライラあるだろうと言う人もいるかもしれない。だがこれらはいずれにしても、両極端で、大きな感情のうねりが生じるものでもあり、世の中を不必要にかき乱しているものにも思う。
おっさんはそんな中で、メインに投稿を続ける媒体を昨年よりnoteと定めたのだが、ここはそれ程輝いても居なければ荒んでも居ないように思う。
様々な意見が飛び交っているのは確かだが、正解を決めつけることなく、厚盛の論考やデータが蓄積されているように思う。
いずれ荒んだりキラキラしだしたり、或いは今現在もおっさんの思い過ごしにすぎないのかもしれないが、やはり中庸こそ望ましいところだ。
少し話が逸れたが、SNSで、特にインスタグラムはキラキラした女子のキラキラした部分を見せびらかすツールという側面が、昨今は前面に出ている。
おっさんの知っている若い女性も、インスタグラムでワンちゃんの写真やスイーツの写真、旅先でのきれいな景色やかわいいキャラクターの写真ばかり投稿しており、投稿の影響に対して無自覚に世の中にキラキラをばら撒いている。
だが見る側にとってこれらは共感するか嫉妬するかの二択しかなく、考察も議論もない。結局記録としては偏っているものばかりだ。
次回に続く